SUPPLEMENT


 お辞儀をしながら部屋を後にする。薄暗い廊下に出ると、タイミング良くーー長い黒髪をなびかせた美貌を持ったーー同僚とすれちがう。
 互いに目が合って、先に目を伏せる。
 彼女は何も言うことなく、たった今わたしが出てきた部屋へと入っていった。
 わたしが分析官の所へ通い詰める時は、執行官としてあまりよくない状態である時だ。分析官のかたちのいい唇から発せられた言葉が、ずっと頭の中を回っている。


◇ ◇ ◇


 身体を動かすことが好きだ。こういう風に気が落ちている期間には尚更ずっと好きになるし、やる気もわいた。
 公安局の中にあるジムには、いくつかの人影があった。見知った顔があると面倒くさいな。なるべく声を掛けられないようにと繕っていると、大抵出くわしてしまうんだけど。(とくに会いたくない人には)

「どうした。暗いな」

 ほらね。心の中でため息をつくようだった。目の前に狡噛さんが立ちはだかっていた。
 クールダウンを済ませたのか、汗だくで、むわっとした熱気をまとっている。
 狡噛さんとは、同じ課で、同じ役職だから、ほとんど毎日の仕事とそれから多少のプラヴェートを共有するけれど、個々で会うようなことは滅多にない。
(ジムに通ってるんだ、まぁ、そうだよね)
 顔から首、肩にかけての滑らかな筋肉のつきを見て、納得をする。

「・・お疲れ様です」

 勝手にどぎまぎして、そのまま右足を踏み出すと、狡噛さんは通路を阻むように左足を差し出した。
 一応彼のほうが先輩なので邪魔とは言えず、向き合う。あまりにも強引なコミュニケーションだ。

「これから入るのか?」
「ええ。ちょっと落ちてて。気晴らしに、です」
「殴る相手が必要なら言ってくれよ」
「狡噛さんが欲しいだけでしょうに」

 バレたか、目元だけで笑って狡噛さんはシャワー室の方へ向かった。

 ストレッチを済ませて、器具の前に立つと気持ちがしゃんとした。鍛えて得た身体は嘘をつかない。ただしくあれる瞬間。
 ランニングマシンの設定をいじっていると、普段着に着替えた狡噛さんが横に立った。
 セットし終えた設定を見て甘いぞ、と言いながら速度やら時間やらを変更しようとするので、悪戯する腕を強めに叩く。狡噛さんは目を見開いた。

「おい、叩かなくても良いだろ」「さっきから邪魔するから・・・今日はもう上がりですか?」
「ああ。今ごろ縢がギノにしごかれてるだろうぜ」
「そっか・・嫌だなぁ、 縢の次、シフトなのに。宜野座監視官の日ってただでさえ空気悪いから」
「そう言うな。あれがギノの役割なんだ」

 走り出すと狡噛さんはわたしの足下から顔までをつうと目で辿る。全くいやらしくないのが何とも言えぬ気分にさせるが、単純にやめてほしかった。
 どっか行ってください、と口から出そうになる前にふと分析官のタレ目が浮かぶ。

「もしかして、何だか気・・遣ってくれてる?わたしに?」
「うん?」
「いや・・・誰かに何か、言われました? 唐之杜さんとか、弥生ちゃんとか」
「いや、何も言われていないが。」
「・・・・。」

 腰に手を当ててわたしの姿を見守る狡噛さんに『気が散る』と手を払うと、肩を竦めただけだった。狡噛さんはわたしが走り終えるまでずっと様子を伺っていた。

 着替えを済ませて控え室へ行くと、やっぱりそこには狡噛さんが待ち受けている。
 そこまでくるとさすがにわたしも諦めて、きっと今日は何かがあって狡噛さんも落ちてる日で、人恋しくてずっと付きまとってくるのだと解釈をした。
 そうなると面白くなってきて、わたしは狡噛さんの背中に飛び付いた。

「お待たせ〜っ! なんちゃって・・」
「ちゃんと汗拭いたのか。髪が濡れてる」

 わたしのアタックをすいと避けて、ほらここだ、と顔の近くの束に狡噛さんの手が触れたとき、頬に指の熱が触れた。
 知的さを象徴する上品な眉と長いまつげを間近にして、突然、狡噛さんの男性らしさを強く感じ取る。

「何か飲むか?」
「あ・・・じゃあ紅茶を」

 ドローンに言いつけに行った狡噛さんに小さくお辞儀をし、静まった控え室を見渡す。いつもここは人が少ない。珍しく誰かと会ったとしたら、肉体改造を目論んでいる狡噛さん、健康維持のための征陸さん、そして他の部署であろう面識のない人が一人二人三人いるくらいだった。
 そういう自分も頻繁に通っているわけではないけど。
 トレーニング室の方からは金属のぶつかる音がして、まだ人の気配がある。

 戻ってきた狡噛さんはミネラルウォーターを手にソファへ腰を掛ける。
 お前も座れよ、とトレーニング後なのに全く疲れない目で言うので、またもやお辞儀をして座らせていただいた。
 ドローンがわたしに常温の紅茶を差し出す。受けとると視覚の役割をしている黒い部分が緑色に二度点滅して、音もなく常駐場所に帰っていく。

「座れとは言ったが、時間は大丈夫なのか」
「あと30分くらいなら。遅れたら縢が干からびちゃうもん、ちゃんと行ってあげなきゃ」

 なんとなく・・・忌々しいあの眼鏡上司が頭から湯気をたたせて、縢のデスクの上にあるビーンズをやけ食いしている姿がうかんで。
 わたしはぶるりと背筋をふるわせた。

「福炉は・・・ギノが嫌いか?」

 狡噛さんの言葉にはっとして見ると、まっすぐに視線がぶつかった。
 狡噛さんはわたしの様を見て、鼻で笑う。

「お前は本当に分かり易いやつだな、お前、うちの課に来てどれくらい経つ」
「えっと、一年くらい、です」
「一年か。もうそんなに経つか」

狡噛さんはさっと考えるような顔をして、一年か、ともつぶやいた。

「一年経てばギノがどんなやつかも分かってくると思うがな」
「分かるんです、自分も理解しないとって・・・。資料の不備なんかはもう、自分が悪いわけですし。でもなんだか合わないんです。プライド高いし、神経質なところとか・・・」

 ストレスは任務中に感じることが多い。うちの課の男性監視官は司令塔タイプなので、一緒にチームを組むと大抵走らされる。
 で、交通機関なんかで逃走されるとこっちだってさすがに追えない場合もあるのに、なぜお前の足で逃がしたんだ、って叱ったりする。
 理不尽だと思った。

 一番ショックだったのは、監視官が徹夜上がりで報告書をまとめていたと弥生ちゃんから聞いたので、コーヒーでも差し入れようと買って行ったところ、執行官に気遣われるような問題は一切ない、と一喝されたことだ。

 つらつらと話を終えたとき、狡噛さんは、ああ、と言って笑った。

「よくあるな。ギノは自分に向けられた心配とか関心とか、世話されることに抵抗する癖があるな。その癖、人のことになると自分のことも忘れて熱心に助言してくる」
「めんどくさいですね」
「そういうやつなんだ、あいつは」

 そうして、お前は俺に似ているから、大変だろうとも言った。
  思いがけない人からの意外な言葉に、ぼうっとしてしまう。「どうして? どこが?どのあたりがですか?」
「さあ。そう思っていただけだ。時々な」

 ずっと、知的になりたいと思っていた。
 狡噛さんや征陸さん、サポートを担当する弥生ちゃんを見ていて抱く、わたしの願望だった。

「此所は、繋ぎ止めておかれる場所だ。俺たちとそう変わらない立場の人間を執行して、けれど人並みのものを送れるだけの生活が保証されている。自分の正義と人生の自由を引き換えにしてな」

 狡噛さんはさらに低い声で独り言みたいに言った。
 名前を呼ばれる。はいと応えると、切れ長の目がわたしを見た。なぜか幼い頃、父が怒ったときの顔を思い出す。

「強すぎる思いは、自分を苦しめるだけだ。福炉。だったらどうするのが得策だと思う?」
「えっ、と・・」

 経験値が明らかに違うことはあれど、どうにかして運動以外の面で力になりたい。たとえば精神的な部分でもいい。一係の足枷になりたくない。
 そう思えば思うほど、辛くなり、気付いたときには分析官のもとへ通ってサプリを服用している。

ーーそれらが、願うことや自分を見つめることすらがまた苦しめることだと言うのなら、どうしたらいいの?


「そういうときは、怒れ」
「怒る?」

 狡噛さんはさっきまでの、はりつめたような顔とうってかわって、冗談でも言うときのようにリラックスしている。

「お前、きょうジムで俺に会ったとき、面倒くさそうな顔をしただろ。それにランニングマシンの時にも、ちょっかいだしたら叩かれた。ああいう感じで、もっと怒れ」
「そんなこと言われても、いったい誰に・・・・」
「仲の良い縢なんかでいいんだろうが、まあ可哀想だな」
「ですね」

 しばらくの間腕を組んで考えていた狡噛さんは、ふと顔を上げた。

「手始めに、お前の苦手な人間とか、でいいんじゃないか?」


◇ ◇ ◇


 翌日出勤すると、挨拶もなしに隣のデスクから征陸さんが身を乗り出してきた。

「おい、凪嬢。ついにやったんだってな」
「おはようございます。突然何のお話ですか?」
「またまた〜、とぼけちゃってさ。ツンデレ凪ちゅわ〜ん!」

 入室したときにはゲーム機に夢中だった縢も、いつのまにか回転イスをこちらに向けている。嫌な予感がした。 常守監視官までも、夜勤明けとは思えない可愛らしい声で会話に参加し始めた。

「福炉さん、昨晩は宜野座さんに叱ってくださったんでしょう? ここのところずっと働きづめだったから、わたしもいつ休むのかなあって・・思ってたとこでした」
「いつも怒られてばっかの上司の風邪にいち早く気が付くなんてさあ、お人好しだよ凪ちゃんも。俺なんてオール明けなのに、だれも心配してくれないし・・・」

 それは縢くんの仕事が終わらないせい。と辛辣な口調で常守監視官が言う。

「ま、ともかくお前さんのおかげでしばらく平和に仕事ができそうだな。感謝してるぜ」

 言いながら、早速酒瓶の蓋を開けようとする征陸さん。わたしは慌ててその手を押さえ付ける。

「鬱憤晴れたし、ここらで一回祝杯だろう?」
「マサさん、あんまり調子に乗るとだめだよ。任務に響く」
「やれやれ。今日はとっつぁんが怒られる日じゃん?」
「じゃ、縢くんは私が怒ろうかな?」
「げ、やめてよ朱ちゃん・・・冗談きついって」

 にっこりほほえむ常守さんの顔にびびって、ささっとモニターに向き直る縢。
 怒った、叱った・・・・・何て言うと聞こえが悪いけど、結局そんなのようなものかもしれない。
 わたしはデスクに腰掛けてありのままを話した。

「仕事の資料を送るからって言われて、犬用の遊び道具の通販URLが送られてきたらそれは、休めって言いたくなるでしょ?」

 ブフ、と鈍い音を立てて縢が噴き出す。

「マジで?!ギノさん、疲れすぎー。凪ちゃん弱味握ったね」
「うん・・・なんか、色々スッキリした」

 ちらりと、黒いスーツの背中を見やる。
 昨日の分析官の言葉を思い返すーー慎ちゃんあたりに貴女の悩み、相談してみたら? 普段から貴女のこと、なぁか気にかけてるみたいだし。

「ありがとうございます。わたし、もう少し肩の力を抜いてみる」

 一係の皆に聞こえるように言うと、様々な対応が返ってきた。
 狡噛さんは最後までデスクに向き合い、会話に参加することはなかった。そのクールな態度を受けて自分の中に少しの寂しさを感じとる。
 誰にも気づかれないように、胸に手をあてて、このどぎまぎをやり過ごそうと紅茶を一口飲んだ。

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