タイトルなんて思い出せない程の


「眼鏡の曇りがサイコパスの悪化に繋がる?」

 狡噛さんの一言に、思わず読んでいた紙の小説から顔を上げる。彼はミネラルウォーターを片手に、ネクタイを緩めているところだった。長く見るものではないような気がして、慌てて目を落とす。馴染んだソファがぎしりと音を立てる。

「そうだ。ギノのやつ、やたら神経質でな。刑事部屋を追い出されてきた」
「宜野座さんらしいなぁ」 漫画のように、ぷんぷんと頭から湯気をたたせている姿が目に浮かぶ。
「倉庫は綺麗になったの?」
「ああ」
「手伝えなくてごめんね」
「あの程度の荷物や資料なら一人でも十分だ。それに、お前は非番だったろ」

 こうして会話している間にも布が擦れる音がしている。どうにも顔を上げられなくて、無駄に活字を追った。勿論内容など全く頭に入ってこない。

 わたしはいつも、本が読みたいという口実で狡噛さんに会いに来る。わたしが一係に執行官として採用された頃、まだ彼は監視官で。部屋を行き来するまで仲良くなれたのは、好きな作家さんが同じだったということと、縢くんが主催してくれた「執行官同士、仲良くしようじゃないかの会」という名目の飲み会のおかげだ。

 初めて狡噛さんの部屋に訪れたとき、紙の本がずらりと並んでいてどきどきした。読みたいという気持ちが身体から溢れていたのか、目を輝かせたわたしの背中で笑われたのを今でも覚えている。
 時が経った今、本だけではなく、いやむしろ本よりも、ここの家主にどきどきしてしまう始末なのだ。

 彼に聞こえないようにこっそり溜め息をつく。


「…最近、当直ずれますもんね」


 過去に長く思いを馳せていたためか、かつての上下関係が口調に出てしまう。はっとするも、もう遅かった。狡噛さんは気づかない様子でこちらに近寄ってくる。


「常守監視官だろうな…ま、俺とギノが組んでも口論になるだけだ」

 飲むか?と差し出されたボトルを静かに断って、読みかけの頁に栞を挟む。

「わたしも弥生さんも縢くんも、みんな小柄だから、実は結構大変なんですよ。犯人が大柄だった時とか」
「その時のためのお前なんじゃないのか」
「わたしだって、そんなに力ないもん」

 狡噛さんはソファに脚を上げて寝そべった。おかげておしりからずり落ちそうになるところを、咄嗟に腕を掴まれる。まるで任務中のような迅速な動きに、最後に一緒になった事件はいつだっけな、と考えさせられる。


「常守監視官は、どうですか?」
「…どうっていうのは、刑事としてどうかという意味か?」


 いや…と口をこもらせてしまう。
 言ってしまえば、狡噛さんは格好いい。こうやってだらしなく横たわっている今ですら格好いいと思えるのだから、仕事してる最中なんてもっと素敵なのだ。純粋そうなあの監視官ならば、この人に優しくされたら好きになってしまいそうなタイプに思える。

 素直にそれを伝えれば、狡噛さんは照れる様子も見せず、少し思案して言った。


「思っているようなことは今のところないな」
「今のところですか」 落胆を見せないように取り繕う。
「冗談だ」


 言い切ると共に、ぐいと腕を引っ張られる。
 あれよあれよという間に、わたしの身体はソファの上にのぼり、頭は狡噛さんの首の近くにまで移動させられた。要するにこれは。


「添い寝…」
「悪くないだろ」 彼は当然だと言わんばかりだ。
 少し顔を持ち上げれば、こちらを見下ろす狡噛さんの顔。
「顔、赤いな」
「からかわないで」


 つっこまれると、いやでも自覚してしまう。必要以上に近い顔とか、時々かかる息だとか。気をまぎらわせようと言葉を繋ぐ。


「掃除、疲れた?」
「まぁな。埃は好きじゃない」


 逆に好きな人なんていないだろうというツッコミは胸にしまう。それにしてもこの体勢は、甘えさせてくれたのだろうか。
 彼の肩口に顔を埋め、深呼吸をすると、煙草と埃が入り交じった独特の香りがする。


「臭いか」
「ううん、大丈夫」


 確かに臭いはするけど苦痛なほどじゃない。それに、今シャワーに行かれて、離れてしまう身体が惜しかった。小さな予感がして少し身体を寄せると、彼は腕がわたしの背に回した。




 数秒か、数分か。狡噛さんの腕の中があたたかくて、意識が飛んでいた。視線を上に動かせば、剥き出しの天井を見つめる狡噛さん。まっすぐで力強い。昔と変わらぬ目。


「狡噛さん…」


 は、とわたしの声に反応する身体。ゆるやかに降りてきた瞳がわたしを捉える。


「ん?」
「狡噛さんは…」


 執行官になってよかった?わたしと同じ立場で、嬉しい?

 伝えようとした言葉は、喉に張りついた。引っ掛かって、うまく出てこなくて、呼吸をおく。
 狡噛さんは、わたしのつむじのあたりに顎をのせて、静かに息をしている。
 あたたかい人間のぬくもり。


「宜野座さん…怒るかなあ」


 何を、とは聞かれなかった。代わりに大丈夫だと言う。


「猟犬同士の人間関係にまで気を回せるほど、あいつは余裕じゃない」
「うん…」


 分かってくれてる。狡噛さんは、わたしの一言を分かってくれていたのだ。それは嬉しくて、せつない。
 理解はしてもらえても、気持ちがこちらを向いている確証はないのだから。


「少しだけ眠ってもいい?」
「…30分だけなら」


 思わずふふ、と笑うとわたしの息がむず痒いようで、身体が向き合うようにされる。今度こそ正面に鎖骨、それと厚い胸板だ。

 どーんと甘えちゃえ。そう思って、狡噛さんの身体に両腕をまきつけて、ほっぺたを胸板に。狡噛さんの手のひらがわたしの髪をゆっくりと撫でた。そのまま背中に到達して、あやすような動きが繰り返される。


「こうがみさん。おやすみなさい」
「おやすみ」


 抱き寄せられて、彼のシャツに顔をうずめる。狡噛さんの腕の中で眠りにつく。
 次に目をさましたとき、あなたはわたしを抱きしめたままでいてくれるだろうか。




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