#3 夢の続き
窓の外は雨が降っていた。窓際の、低いタンスに腰かけて(これをすると怒られるのだけれど)、くもったガラスの向こうにつめたい空気を感じた。
しとしとと静かに、時にはげしく滴る音に思い出すのは、いつもあの日のこと。
わたしがまだ学生だった頃。プログラムに詳しいどこかの学生が、小規模ながらにも一部システムの損傷を引き起こすという事件が起きた。普段通りの生活に支障が生まれることへの不満や柔なシステムのつくりに怒りを覚えるよりも、わたしは同い年くらいの犯人に対して至極感心したのを未だに覚えている。
その頃わたしが住んでいたエリアは気象観測地に近く、その日は晴れと表示されたのだが、実際には昼過ぎからごうごうと雨が降ったのだ。
システムにエラーが起きて、予報が外れた。そんなことが起きるなんて。
雨傘が大粒を跳ね返し、町中のホロコスが消灯された暗い昼。憂鬱な気持ちを抱えて学校をあとにしようとした時、後ろから声をかけられた。
久しぶりだな、と無愛想に片手を上げるその人が初めは誰だか分からなかった。背は高い。整った顔を隠す細いフレームは、真面目そうな外見を、更に強調している。困惑するわたしの心の内が伝わったのか、彼は表情を硬くした。
「征陸だ」
「あ、えと……まさおかくん?って、まさかあの征陸?」
「多分、その征陸だと思う」
まさおか。もちろん、その名は知っていた。
幼い頃、よく一緒に遊んだのを覚えている。たしかお父さんは公安局の刑事さんだったような。休みの日は普通のとっても優しいなおじさんだった。
言われてみればすぐに思い出した。面影も、あるのだ。
そんな彼がどうしてここに。
「あの、引っ越したって、友達から聞いて……」
「ああ……確かに越したは越したが、今はアパートにいてね。しかも、今は苗字も違うんだ」
征陸くんは静かに言った。
どうしてなの? と、言わせないような、その様子に追及するのをやめる。
「今は、宜野座、と呼んでくれ」
「え」
ぎのざ。小さな声で反芻すると、手首の端末に着信。たった今聞いたばかりの名前が簡易的な情報ファイルと共に映し出されていた。
「住所も見てくれ」
言われた通りに見てみれば、今のわたしの家と徒歩十分圏内のご近所様なことが分かった。
宜野座くんを見上げたその背景では大量の雨粒が降り注いでいる。わたしの目の動きに気が付いて、はじめて笑顔と呼べる表情を見せる。
「なるほど……」
「理解が早くて感謝する」
聞くところ、宜野座くんは法学部で勉強をしているらしい。同じ敷地内で日々過ごしているにも関わらず今まで気が付かなかったのは、互いにすれ違う人のことを追って見てないからだと話しをした。
「また、会えるなんて。それにあんなところで偶然」
「そうだな。俺も、驚いた」
「よく覚えていてくれたね」
「小さい頃よく一緒にいたからだろう。福炉もそれで解ったんじゃないのか」
「そうだね。でも、宜野座くんはちょっと、大人っぽくてはじめ気付けなかった。旧姓でわかったくらい」
「君はほとんど変わってないよ」
それが安心した。と宜野座くんは言って、柄を持ち直す。
異性と話すだけでもまったく成り立たないのに、驚くほど口下手なわたしが旧い友人とだとこうも違う。言葉が次々と溢れて、滑り落ちるようにくちびるから発することのできるのは久しぶりな感覚だった。
なつかしさ、あの頃は楽しかったねと、言える相手がいることの嬉しさと……ときめきに近いそれを何年ぶりに味わっている。
「来年で卒業だけど、宜野座くんは進路、ある程度決まってるの?」
「俺はもう、やりたいことが決まってる。福炉は?」
「親戚が教師をしているから、憧れてはいるよ」
「だめなのか?」
「責任と重圧に耐えられるかな」
「今の時代、シビュラが大抵の道筋を立ててくれるのに、教師になってその手助けをしたいなんて変わっているな。勉強が好きならまだしも」
「勉強はあまり。進んでしたいとは思わない」
ただ、と言いかけた時、人の流れに掴まった。避けるようにして宜野座くんが高くあげた傘のせいで、横殴りの雨が髪やズボンや鞄を濡らした。
ああと声を漏らしてしまう。
「すまない」
「いいの。気にしないで」
話はそこで、不自然に途切れた。
*
髪を湿気で少しふくらませながら、眼鏡と伏し目がちなところは、すこし堅苦しいような印象を持たせいたけれど、それでも笑う顔は昔と変わらない。
あの時、不自然に終わった会話の先に、わたしは何と言葉を続けようとしたのだろう。
「凪」
やさしい声に捕まった。
まず、優しく身体を引かれて、タンスから剥がされた。彼らしい行為で、笑ってしまうと、伸元は眉を寄せた。ご機嫌をとる。
「コーヒー、飲む?」
「いや、大丈夫だ」
「そう」
「難しい顔をしていたぞ」
後ろから抱き締めて頬をよせてくるので、囁くように言う。
ねえ?
「久しぶりに会った日のこと、覚えてる?」
「久しぶりに、会った日のこと?」
付き合う前の話。
伸元の顔を一度見、そしてガラスに指先を滑らせると、思い出した。と耳元で声がする。
「本当に家が近所だったな」
「夢の話をしたよね」
「したか?」
「うん。した」
はっきりと今、思い出す。
「あの頃のわたしね、きっと誰かの為になりたいと思ってたの」
漠然と。ただ。
何もなかったのだ、あの頃のわたしには。伸元と再会して、彼の思いを聞くうちに、わたしにも夢が出来た。今は色々な資格を取りながら、一つずつ、前に進んでいる途中。
「伸元は、しっかり夢を叶えたよね。すごいなあ」
「そうか? 俺はむしろ、今が贅沢すぎて将来が不安だ」
「ん?」
聞き返すとダイムが呼んだ。時計を見れば、PM1:35。きっとお腹が空いたのだろう。伸元の月一度あるかないかの休暇をよろこんでいるのは、わたしだけではないのだ。
「今行くよ」
ダイムに呼び掛けてから、伸元はわたしの手を数回握り直す。自ら触れてくる低い体温がとても好き。
「あの時再会できて良かったね」
伸元と会えて良かったな。そう思い返すときに必ず思うことは、伸元のお父さんのことと。システムを乗っ取ったあの時の青年に感謝しないと……ということ。刑事の恋人が、だめだめだよね。
言わないで、心のなかで留めておくと、伸元は笑いながら目を細めた。
「あの時、雨が降っていて良かった」
早口だけれど、静かな声が好きで言うそのせりふが、いとおしくて、ありがたくて。
離れようと腕を外す伸元を引き戻して、少し首を傾けながら、高いところにある頬に、くちびるを押し当てた。驚いた伸元の顔、そして笑った。
これからも、一歩ずつでいいから、二人で前に進みたい。