Spinel


 初めてあの眼差しに射貫かれた時には、ああこれは、最後の恋になるひとなのだと直感が告げていた。
 狡噛さん、とわたしが声をかけるときちんと顔をこちらに向けてくれた。その口にはいつの間にか、彼と同じ煙草。
 滅多に言葉にはしなかったけれど、固い決意のしるし。変化の理由。

 かつての飼い主で同僚でもあり、恋人でもあった。わたしの頬に触れる指先はいつも熱かった。もういらないってくらいに吐息を共有した。艶のある黒髪を何度も撫でた。かたいけれどなめらかな肌が美しかった。いつも、そばにいた。





 狡噛さんが毎日座っていた椅子の背もたれに触れる。そこに温もりなんてものはなくって、つめたく無機質なビニールの感触だけ。最後まで机の上に積みあげられていた荷物は、既に撤去されていた。隣に立つ常守さんが何か言いたげな顔をしているのが横目で分かった。でもその無言が逆に、「辛いのはあなただけじゃないんだ」と言われているようで、なんだが居心地が悪い。
 常守さんもまた、狡噛さんに貫かれた者のひとりだ。辛いのは当たり前だと思う。今この場で子供のように泣きたい気持ちであったけど、自室に帰って一人きりになってからにしよう。

 しばらく二人で眺めていただろうか。
 ふと、デスクの奥の薄暗いところに影が出来ているのに気づいた。その不自然さに眉を潜める。床に手をついてよく目を凝らすと、それは十センチくらいの箱だった。慌てて手を伸ばす。福炉さん、とわたしを呼ぶ常守さんの声がした。

「常守さん、これ……」

 片手に収まる程度の箱には、見間違えることのない柄が印刷されている。
 それは此処にいた二人の刑事が好んだ煙草の銘柄だった。



 飽きませんか、と問い掛けながら、わたしは頭ふたつ分離れたところにある横顔を見上げた。公安局本部ビルの屋上。夜風が髪とスーツの端くれを揺らした。狡噛さんが駄々をこねてわたしを呼び出したのに。
 なかなか話を切り出そうとしないから、退屈しのぎに軽い気持ちで質問をしたのだ。
 狡噛さんはふっと煙を吐き出しながら笑う。

「飽きるさ。潜在犯を執行して、報告書に追われて、ギノに怒られての繰り返しの毎日だ」
「ああ、分かります。わたしも今日怒られましたし。というか、そこじゃなくて……」

 一度口を閉じれば、なんだよ、とつぶやく声が降ってきた。
 言葉にしたくなくて、ゆらりゆらりと不規則に動く気体を目で追った。察しのよい狡噛さんは合点のいった顔をして、くちびるを器用に動かしてそれを上下に揺らした。

「これか?」
「…………」
「黙るなよ、お前が聞いてきたんだろう」
「吸いすぎると病気になるって。古い文献にありましたよ」
「そうかよ」

 煙草の先が光を放ちながら燃え、灰になる。それが音もなく眼下の街に落ちてゆくのを目で追った。
 狡噛さんが一人の人間に執着しているのはなんとなく分かっていた。それはギノさんの小言からであったり、征陸さんと呑んだ夜に聞いたことであったり、時折狡噛さん自身が口にする名前だったり。どこの話に出てくる名前も、彼の部屋に貼られた人物のことを指していた。先日の会議で改めて、狡噛さんはその人に囚われていると確信づいた。
 煙草は、彼を象徴する物だった。彼を殺めた一人の人間、マキシマ。狡噛さんは一人でその人を追い求めた。どんなに自分が傷付いても、壊れても。
 その姿は彼──かつての同僚、佐々山──を見ているかのようだった。

「そろそろ、話してくれません。今夜呼び出した用件」
「…………」

 次はだんまりか。
 狡噛さんはスーツの胸元から携帯用の灰皿を出して、まだ半分残っている煙草の火を消した。
 顔を覗き混む。髪が目元に影をつくっていて、表情が汲み取れない。

「狡噛さん?」
「凪」

 互いの声が重なった。自然と狡噛さんの声に導かれ、真剣な眼差しとぶつかる。

「いいか。大きな声を出さずに聞いてくれ」

 一度あたりを見回すようにしてから狡噛さんの左腕がわたしの肩を抱く。耳元に吐息があたる感覚に頬があつくなった。近づいた距離のせいで、むせかえりそうな煙草の臭い。

「俺はもうすぐ此処を出ていく。此処にいても奴を捕まえることは出来ない。志恩に協力を頼んだ。俺にはやるべき事がある。たとえ、犯罪者扱いされることになってもな」

 驚いて、狡噛さんの顔を見た。
 ブルーの瞳は静かに揺らめきながら、再びわたしの心臓を射貫く。

「お前には感謝しきれない、凪」

 何も言えない代わりにたまらなくなって伸びたえりあしとうなじに触れれば、一瞬驚いた顔をして、すぐに強い力で抱き締められた。

 狡噛さん、どうして。どうして。

 永遠なんて無いのは分かっていたはずなのに、まだ見ぬ夢を愛していたわたしがそこにいた。それに気が付いたのはもっとあとのことだけれど、わたしは確かにこの時、初めて運命というものを呪った。
 その数日後、狡噛さんは公安局から逃亡した。


 この一箱を置いていったのか、この一箱が置いていかれたのか。どちらにせよ、物凄くたちのわるいことをしてくれたなと思った。これでは執着してしまう。

「それ、狡噛さんが吸っていた煙草ですよね……」

 常守さんがわたしの手元を覗きこんで言った。その声を聞いて、はっとする。
 これは多分わたし宛に残された物ではないのかもしれない。

「常守さん、これ、持っていて」
「え。でも……」
「わたしが持っていても意味ないよ。狡噛さんには内緒にしてたけど、じつは、煙草の臭いがだめなの」

 嘘ではなく本当だった。彼が吸っていた頃から煙草の臭いには不快感を覚えていた。
 狡噛さんの煙草を許していたのは、狡噛さんと同じ理由。彼に対する決意、教訓。そんな理由。
 狡噛さんはもしこれをわたしが発見したら、捨てると思っただろう。彼が狡噛さんを縛り付けた、忌々しいものだから。

「本当にいいんですか?」
「うん。常守さんだから渡せるんだよ」

 二人の刑事が、これからの希望に宛てたものだから。

「福炉さん。わたし、上手く言えないですけど、まだ狡噛さんとは何かあるような気がして……」
「そうだねえ。あの人なら、何かの事件でひょっこり顔を出しに来るかも知れないよ」

 互いに顔を見合わせて笑った。

 そう。またきっと会える。
 常守さんのように高い能力も、皆を引っ張る統率力はないけれど、狡噛さんを愛する気持ちなら誰にも負けてない。
 それに。
 心臓に手をやる。いつもより少し早いテンポで刻まれるリズム。忘れてない。狡噛さんといたときの胸の高鳴りを。
 此処にいる。いつでも、狡噛さんはわたしの中に。いつもすぐそばに。
 火傷のようにひりひりと焦がされている。あの瞳に射貫かれている。

 常守さんを見た。
 この人は、無限の可能性を秘めている。監視官としての純粋さを、初めて出会ったときから変わりなく持ち続けている。この人もわたしと同じく、これからも狡噛さんに囚われていくのだと思う。けれど、それでいい。
 誰かが記憶してなければ、狡噛さんが此処にいたという事実を、ひたすらに生きていたという事実を焼き付けておかなければ、狡噛さんの信念が報われない。

「行きましょうか」

 常守さんに連れられて刑事部屋を出る。一係の部屋の前は他とフロアと比べて静まり返っていた。
 その雰囲気を吹き飛ばすように、明るい声で常守さんが言う。

「数ヵ月後には新しい執行官が配属されますから」
「そう……ギノさんにまた会えたらいいけれど」
「会えますよ」

 常守さんは笑顔で言った。その顔には自身が満ち溢れている。

「必ず宜野座さんは帰ってきます!」
「どうして……常守さんはそんなに、自信ありげに?」

 常守さんは立ち止まり、わたしを見上げた。
 配属させられたばかりの頃よりも、どこか大人びた表情をした常守さんが此処にいる。
 狡噛さんに見せてやりたいほどの、強い意思をもった立派な刑事の眼差しだった。

「刑事の勘ってやつですよ、福炉執行官」


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