ひとみ


 車のフロントガラスにおおきな水滴が跳ねる。控えめに腕に巻きつく時計は、時刻を午後10時27分と告げていた。
 夜だというのに、街は明るい。
 正面に見える大きな電工掲示板を見上げると、簡潔な謳い文句を連ねながらシビュラの広告が点滅し流れていった。よどみなく流れていくそれらをとくに興味もなく眺めていると、ふいに運転席の窓をノックされた。窓越しにいる相手を確認して顔がゆるむのが分かる。乗って、と口を動かせば、彼は助手席のほうへにまわり車内へ乗り込んだ。冷気と雨のにおいと、街の空気をつれて。

「遅くなってすまない」
「いいの、これ使って」

 せっかくのスーツが台無しだな、と言いながらタオルを受け取って慎也くんは笑った。久しぶりだけど、いつもの慎也くんでほっとする。
 慎也くんは公安局刑事課、というわたしたち凡人から言うと"物騒"なところで働いていて、しかもそこで『監視官』という職務についている、らしい。らしいというのは彼のくちからはあまり聞かないことだから。彼はわたしといるときに仕事の話を滅多にしない。
 わたしと彼は長年の友人であるけれど、とくべつな間柄になることはわたしからすれば何だか申し訳ない気がして。
 言葉はなくとも、いつからかこの関係に落ち着いている。
 今夜もなにかするわけでもなく、互いにただ会いたいと思った。もう少し早ければ食事でもと考えてはいたけれど、明日も彼が出勤ならばもう時間が深い。
 もしかしたらこのまま彼の家まで送り届けるだけかもなと思案しながら、となりに座った彼に話しかける。

「久しぶり。元気にしてた?」
「まあまあだ。今受け持ってる仕事が忙しくてな……そっちはどうなんだ」
「シビュラさまさま、って感じかな」

 軽口を挟みながら車を発進させる。
 このご時世オートモードで車を運転させることが可能ならしいけど、それはなんだかすこし怖くて一度も経験したことがない。だからはじめてのひとを車に乗せるとき、必ず驚かれる。訝しいと思われるのは重々承知だけれど、なぜか、どうしても機械に頼るのは苦手だった。
 慎也くんはそんなわたしを好きだとよくいう。それからいつもおもしろそうな顔をして、わたしの運転する姿を眺めてきていた。

「今日も凪の運転か」
「うん、もう慣れたでしょ?」
「ああ。突然の急ブレーキとかな」

 そう言って、慎也くんはわたしの顔を覗き込んだ。そんな慎也君を横目で見て笑う。暗がりで見えたその顔が幼くてかわいい。
 それでも会うたびに目の下の隈は増えているし、頬の肉は落ちている。
 出会った頃、高校課程時代のハツラツさが欠片もなくて、時おり遠くを見るような目付きをする彼を目の当たりにするたびに、心臓がえぐられる。

「どこか行こうか。それとも、家まで送る?」
「会ってからのことを何も考えていなかった。凪はどうしたい」

 彼はよくこうしてわたしに判断を委ねる。
 若い頃は答えを試されているように思え、苦痛に感じることもあったが、もう今は慣れてしまった。

「もう少し、走らせようか」
「OK」


 夜の街を走った。
 車内では本当にたわいのないことを話し合った。
 わたしの周りで流行ってる役者のことだとか、最近読んだ本のことだとか、学生時代の思い出話。
 珍しく、彼が仕事のことについて話してくれた。
 高等課のころ知り合った宜野座くんと仕事場でも同僚になり(わたしは宜野座くんとは面識がない)、彼の性格とは正反対の部下に手を焼いているとか。
 慎也くんは、たいへんなくらいに、スモーカーだとも言った。

「随分、勝手な部下なのね」
「自分よりも立場が下なはずなのに、随分上から見られてるんだ。アイツには勘がある。ま、なめられているんだろうな」
「大変ね」
 言葉がみつからなかった。
「まったくだ」

 ふたりのあいだに沈黙が訪れて、ただ目の前の歩行者を眺めた。雨は、気が付けばやんでいる。

「慎也くん……」

 ずっと、聞きたかったこと。今なら聞けるきがした。

「今の仕事、後悔してない?」

 静かに問いかけると、みょうに湿気をまとった静寂だけが車内に残って、わたしはすこしだけ後悔をした。
 脚を組みかえる気配を感じた。
 すこし間があってから、ああ、とだけ返事が返ってくる。
 黄色信号の点滅、濡れた車道に無数のライトが反乱する。

「変なことを言ってごめん」
「シビュラは社会の目なんだと」

 話始めたのはまったく同時だった。外に流れる広告を見たのだろうか。
 一呼吸おいて、凪はどう思う、と問われた。もう、すこし寝ぼけているのか声がくぐもっている。このまま寝てほしかった。

「わたしに聞くの?」
「すまん」
「謝らないで。なにか悪いことでも聞かれたみたい」

 そう返すと、彼はすこし笑った。

「笑わない?」
「笑わない」

 すこし横を向いて彼を見れば、まっすぐなひとみとぶつかった。

「あのね、わたしはそうとは思わない。ひとは、それぞれの考えで生きるべきだと思うの。シビュラはたしかに素晴らしい発明。でも、それに呑み込まれてしまったら、わたしはわたしでなくなってしまう」
「凪は、そう考えるんだな」
「笑わないで聞いてくれて、ありがとう」
「俺は、お前の言葉が好きでな」

 好き。
 彼のくちから発せられたその単語に、深い意味はないのだろう。それでも、わたしは胸の奥が熱くなった。一瞬、車をオートモードに切り替えて、泣いてしまおうかと思ったくらいに。

「ありがとう」

 まっすぐなそのひとみに。
 慎也くんは微笑んだ。

「家まで送るね」
「今日はよく眠れそうだ」

 知らせるから、着くまで眠って良いよと言うと、じゃあ、お言葉に甘えて。と、硝子に黒髪を押しつけた。

「今日、凪に会えてよかった」

 そんなの、わたしもだよ。



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