長く閉じた瞼をようやく持ち上げた湛山は、複雑な眼差しで目の前に眠る彼を見た。
あの後の彼―――夕霧は悲惨だった。
長い長い時を愛しい者を失ったままたった独りで過ごし、彼はそうして徐々に疲弊し壊れていった。自我を失うほどに狂ったように暴れ、いつしか時と世界の交じる狭間に流れついたようだった。その暴れようと力の様は、様々な経験や体験をしてきた湛山だったが驚く程。破壊力といったら例えようのない恐ろしさであった。
しかしそれもそうなのだ。彼が彼女と出会うずっと前から全てを見てきた湛山は一人納得した。なぜなら彼は神堕ちして妖となった身だったのだから。正確には彼は神格の妖であったのだが、言葉通り身を神から堕とし―――神堕ちした者となった。神堕ちした者は神であった時と比でない程力を奮えるという。理性を保っているほうが珍しい程であるから、狂ってしまうのも頷ける。そして彼が神堕ちした理由は考えるまでもなく彼女の死があったことは否めない。
「お前は、どうしたいかな」
答えが返ってこない問いを湛山は夕霧に訊いた。おそらく彼が目覚めたならば再び暴れることは目に見えている。この場で暴れられては困るし、何より彼自身の身が持たない。理性を保てないということは己の限界にすら気づかず身を滅ぼすこと必至。ここで出会ったのも何かの縁。……彼がそうなることを傍観するほど湛山は非情ではない。
「お前が自力で思い出した時、全てを話そう」
しばらく夕霧の眠る顔を見ていた湛山はその紫の瞳を一瞬ギラつかせたかと思うと、一言二言何か唱え夕霧の額に再び手を翳した。と、見る間に夕霧の体が縮んでいく。長かった髪はおかっぱほどに。大人から子供へ。しばらくすれば夕霧の体はすっかり変わっていた。
「……ん、」
そして今までピクリとも動かなかった夕霧の瞼が一瞬動いたかと思えば、ゆっくりとその瞼が上げられる。その瞳と視線を合わせた湛山は微笑んだ。
「おはよう―――蘆花」
目覚めた夕霧―――いや、たった今蘆花となった彼はきょとんとした表情を浮かべて瞬きを繰り返した。どうやら理解が追い付いていないらしい。
「ろ、か?」
「お前の名だよ。私は湛山」
「湛山、さん」
変わったのは見た目だけではない。それは中身もであった。いや、変わったというよりは時間を巻き戻したといったほうが確かであろう。湛山は蘆花の夕霧としての《時》をまるごと彼から隠した。本人がそれに気づいた時にだけ戻るようにと。蘆花となった彼はまっさらな記憶の中、与えられた名を反復した。そうなのだと疑う様子はない。以前の記憶がないのだから疑う余地もない。
「お前には今日から私の店を手伝ってもらうことにしようかね」
淡々と話を進める湛山に、蘆花はコクリと頷いた。
それは蘆花が、始まった瞬間だった。
隠された過去が、嘲笑う