不穏な気配とぴりぴりと肌を刺激する空気が満ちている。お気に入りのロッキングチェアに揺られながら、湛山は一度ちろりと時屋の外へと繋がる扉を見た。店内は相変わらず静寂。動いているのはただ古くから時を刻む大きな置時計と、彼のみ。だが何か、ある。そう感じたのだ。
湛山が開いている《時屋》は特殊な店であり、客は望んだ時のみ店に辿り着けるようになっている。そして店のある場所も特殊であった。時屋のある場所は、ここが一つの“世界”と区切られている様々な空間と空間の狭間にあるのだ。故にこの場所は《時》が入り交じる。簡単には入り込めず、時屋という目的がなければ狭間に取り込まれて抜け出せなくなってしまうこともあるのだ。だがこの感じ。客ではないことは確かであった。
―――ギシリ
湛山が地に足を付けた音が響いた。ゆるりゆるりと羽織をはためかせ、長い黒髪を揺らして扉に向かう。
「はて、どちらさんかねえ」
ギィと開かれた扉の先。湛山の視界に映るはぐにゃりぐにゃりとねじ曲がる灰色の世界。空間と空間がぶつかり、混じるこの場所ではそれが当たり前の光景だった。が、今回は少し異なるようだ。
淡い紫の瞳をすぅ、と目を細めた湛山は少し先を見つめて「ほぅ」と息を吐いた。何かが落ちていた。近づいて見ればピクリとも動かないそれは、見た目は人間。しかし気配は人間のそれではない。感じからして、妖であろう。
「―――生きているかい?」
問うても動かぬそれ。屈んで顔を覗き込めば息はしているようだった。赤茶の髪は結っていたのだろうが、乱れてはらはらとその頬を打つ。
「生きているかい」
再び、今度はその肩を揺らして声をかけるが変化はない。仕方なしに一度考える仕草を見せた湛山は、それからそれを抱えると《時屋》に連れ帰った。
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「まだ起きない、か」
やはりピクリとも動かないそれを眺めながら湛山は困ったように呟いた。連れ帰ってからというもの、いっこうに起きる気配はない。あれから何人もの客が来て時がたったが、これ程までに目を覚まさないとなれば流石におかしい。そもそもこの者が何者なのか、名すらわからない。何かしようにもどうしようもないのだ。
しかし、たった一つ。探る手がある。今の今まで配慮してそれを選択することはなかったが、これ以上待つことに意味はありはしないだろう。
「君には悪いが、」
決心した湛山は静かに眠るそれの傍らに腰を据え、そっと額に手を翳した。意識を手の一点に集め瞼を下ろす。ぐにゃりと意識が何かを抉じ開けるように動いた。細い細い糸を手繰り寄せるように動いた意識は、やがてとある箇所を手繰り寄せて捕まえた。
「失礼。覗かせてもらうよ」
次の瞬間、湛山の意識は赤茶の彼の中にあった。正確に言えばその過去の記憶の中に、だが。時を操る湛山にとって、それは様々なところで応用できた。今回の場合は過去という《時》を通じて彼の記憶を覗き見するといった具合だ。常ならばやらぬことだが、意識が戻らなくなってしまった原因を探るための処置ということで致し方あるまい。
湛山が降り立ったそこは、大きな屋敷であった。大概大屋敷とくれば気配は活発で、人気が有り余るほどなのだがこの屋敷からはほとんどと言っていいほど感じられない。必要最低限と言った感じであろうか。
「……ほぉ」
そして、感じたある気配。人間ではないもの。妖。それはこの記憶の持ち主のものだ。きょろりと辺りを見渡した後、湛山は一歩足を進めた。この場合、あくまでここは記憶の中であるため、あちらからは湛山の姿を見ることは出来ない。それを利用して堂々と屋敷内に入り込むも、湛山はまったくと言っていいほど誰にも会わなかった。
妙である。おかしな屋敷だ。眉を密かに潜めた湛山は、長い廊下を曲がった突き当たりの座敷部屋まで来ると、その理由(わけ)が解ったようで納得したように一度頷いた。
広く殺風景なその部屋には、美しい少女が一人。そして妖の彼。二者が楽しそうに会話を交わしていたのである。本来、妖と云うものはそうそう人間の目に映るモノではない。見えてはいるが“視る”ことは難しいのだ。しかしそれと言葉を交わしているとなると、あの少女は“視える”者か。……人間で“視える”者となると、異質。人間の中でそれは、恐怖の対象だ。大方隔離されるよう腫れ物扱いされ、この屋敷に置かれているのだと容易に解った。
しかし彼らは仲睦まじい様子で、悲観する様子は見受けられない。
『―――夕霧、』
妖の彼の名を、少女が口にする。夕霧、それが彼の名。名を呼ばれ、口元を綻ばせた彼。……これがどうして目を覚まさなくなってしまったのだろうか。湛山は疑問を抱えたまま再び瞼を閉じて、そして時を更に進んだ。
次に瞼を上げ、視界に屋敷を捉えた時。その場には異様な気配が漂っていた。どこか禍々しい。湛山は目を細めて辺りを伺った。そして直ぐに鼻孔を刺激する鉄の臭いで察する。しかし一傍観者でしかない湛山は焦るでもなく、ただその瞳を細目ながらあの部屋に向かった。むせかえるほどの鉄臭さ。いささか気分が悪い。
そしてより一層臭いがこもるあの部屋に辿り着いた時、さすがに湛山も瞳を揺らした。想像はしていたが、やはり酷い。以前笑っていた少女はその身を紅に染め、既に息絶えていた。夕霧は彼女を抱えて顔を伏している。ピクリとも微動だにしない彼はきつくきつく彼女を抱き締めていた。
湛山はそっとその光景から視線を外した。人間と妖。一緒にいようとも行き着く先は容易に想像できる。少女と彼も、例にもれぬ結果だった。変えようのない運命。仕方のないこと。
「、」
だが。そうわりきっていた湛山だが、見ているこちらにまで悲しさが伝わる様に静かに目を伏せて、―――そして瞼を下ろした。
『―――っ、鈴風』
切なく声をもらす夕霧の傍で、ふわりと風が揺れた気がした。
軋む心 堕ちる体