「―――て」
「…おきて、ろ……」
「……か」

「蘆花」

パッと持ち上げた瞼、その隙間から明るい光が入り込んできて、鈍い痛みを与える。ふいに見えたのは長い黒髪。

「……湛山、さん?」
「やっと起きたかい。倒れていたかと思えば……ああ、気分はどうだい?」

見たことのある顔に、ゆっくりと視点を合わせる。その後ろに天井が見える。どうやら仰向けになっているらしかった。寝ていた?確か今、倒れていたと言っていたからなのだろうが。不思議に思いながらも体を起こす―――と、ふと気づく。

「…から、だが……!」

視界に映った自分の手が明らかに大きく、強ばったものになっている。それだけではない。掛け布団を剥がすように捲れば以前見た自分の体とは異なり、まるで成長したかのよう大きくなっていた。驚愕した目で湛山さんを見やれば、視界には自分の赤茶の髪が揺れた。髪も、伸びている。

「なんで、いったい……」

混乱するこちらに、酷く落ち着き払った湛山さんは言った。

「呪(まじな)いが、解けたんだよ」
「……ま、じない」
「真名を思い出すと本当の姿に戻るように私が君にかけた呪いだよ、蘆花。いや、君はもう蘆花じゃなかったね」

紫が、きらりと反射した。

「―――ねえ、夕霧」
「!」

途端にいちぞやと同じく体に雷が走り思い出す。夢のようで夢じゃないようで。少女と二人、話していた。微笑み合って。……ただ傍観しかできなくて。あれはきっと――いや、間違いない己の過去の記憶。そう考えると何かストンと心に落ちるものを感じる。

「何か、思い出したかな?」

試すような顔を向けてくるその瞳に、頭の奥から少しずつ、少しずつその記憶が引っ張り出されて明らかになる。
美しく若い少女。広く何もない部屋。ただ二人で話をしていた。ただそれだけ。しかし夢の時とは確実に感じなかったことが一つ。あの少女を思い出すと、愛おしいと感じる。護りたいと、傍に居たいという気持ちが心底湧いてくるのだ。

―――己はあの少女を好いていた。

いや違う。今でも、好いている。ともすればこの体を動かして探し出したくなるほどに、時間が経てば経つほど焦燥感に駆り立てられる。傍に。彼女の傍に居たい。それだけははっきりとわかった。しかしどうしても思い出せないことがある。

「…彼女の名が、思い出せない」

夢と同じ。やはりあの少女の名がわからないのだ。己がこんなにも心寄せるあの少女の名だけか、どうしても思い出せない。確かこの己の“夕霧”の名は、彼女がつけた。溢れんばかりに脳内で再生される記憶の彼方に、その時のことがちらつく。彼女は笑っていて、己も笑っていた。それ以前に己に名があったかはわからない。だが彼女から貰った名がどれほどまでに嬉しかったのかは、今でもわかる。あの時己は喜びから何度も彼女の名を呼んだ。呼んだ記憶はやはりあるが、だのに彼女の名は思い出せない。ぎゅ、と握りしめた拳が着物に皺を寄せた。傍に、居たはずなのに。……そうだ、彼女は?記憶の中に居る彼女のは、今はどこに?

「彼女は、彼女はどこですっ?」

ハッと思い立つやいなや湛山さんに詰め寄り訊ねる。何故彼女が傍にいない?何かあったのだろうか?ならば傍に行かねば!怖い。寂しい。どうしようもない不安に揺さぶられながらも、湛山さんをしかと見射る。早く、早く答えを。そう望む意思を紫の双眸とて受け取っただろうに彼はただ眉尻を下げるだけ。彼が知らないという考えは失念していた。いや排除していた。この人のことだ、知らないわけがない。“夕霧”としての中に湛山さんはいない。だのに“夕霧”の名を知っているのには、何かしら知っていると見るのが正しい。残念ながら己には湛山さんと接点を持った時の記憶が思い出せないが。

「夕霧、」

何故、言わない……!歯軋りをするこちらに、湛山さんは困ったようにすがったこの手に自身のそれを被せてそっと握る。やはり、何か知っている。確信した。“夕霧”としての記憶と、彼の元にいた“蘆花”としての記憶が混ざり合う。無理矢理にでも吐かせてしまえと夕霧が言い、冷静になれと蘆花が言う。どちらも紛う事なき己自身。だが今、己は夕霧!

「知っていることを、お話下さい!」

彼の腕を強く、強く握る。彼女は今、どこにいる……?早く彼女の居場所を!直ぐに駆けていって、傍に、心に、寄り添いたい。でないと寂しさや恐怖、孤独感に潰されそうだ。ギチギチと骨の軋む音さえ耳に入らない。自分の手の甲に筋が浮かぶ。力を入れすぎた手は血の気を失い白に染まっていた。だが湛山さんは静かに表情を崩さなかった。

「夕霧」
「彼女は、」
「夕霧」
「彼女はっ!」
「夕霧」
「彼女は、どこに!?」













「―――夕霧。お前はまた、身を堕とすつもりか」

空気が一瞬にして凍った。まるで時が、止まったように。紫に囚われて、身動きがとれない。何もされていないのに体を拘束されたかのように感じた。見えない、だか確かな力で押さえつけられたのだ。それほどまでに湛山さんの瞳は強かった。

「お前はまた、身を堕とすつもりか」

再び問われる。焦りに落ち着きを無くしていた心が、波が引くようにゆっくりと鎮まっていき、ようやく思考がまともに働く。するりと、手に入っていた力が抜けて腕が垂れた。

「身、を、堕と、す……また?」
「覚えていないのかい」

ゆっくりと頷けば、遥か昔、己が思い出せぬ記憶の話が始まった。



そうして貴方は何も言わない




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