自分、は誰だっけ?……僕?俺?違う私?わからない。わからない。考えようとすると頭が割れるように痛い。気持ち悪い。暗闇の中で息を吸っても吸っても、どこからか漏れでてしまっているように体に回らない。体?そもそも体があるかさえわからない。まるで意識だけ存在しているようにも感じる。感覚がない。深い深い暗闇にただぷかぷかと浮かんでいる。体があるかもわからないから、暗闇が目に映っているものなのか、それとも“見る”ことすら出来ていないのかよくわからない。でも痛みを感じるのなら体はあるのだろう。……そうだと、思いたい。目に映るはただ黒。ひたすら、飲み込まれそうな程の、黒。
自分はなんだ。いや、“何”なんだ?叫びたくなる。わからない。わからない。わからない。でも一つだけわかることがある。寂しい。いったい何が“寂しい”のかはわからないが、ふとその言葉だけがでてきて離れない。寂しい、寂しい、寂しい。何が?果たしてそれは自分が“何”なのかを知るための手懸かりか?……ああ駄目だ、やはり痛みを感じる。時があるとしたら、どれ程の時間がたったのかわからない。気持ち悪い程の痛みに耐えながら自分自身を模索したが、駄目だった。余計に訳がわからなくなっただけ。
果てしない黒が、どこまでも侵食する。
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「ねぇ、どうしたの?」
気づけば視界には色が付き、映る景色には目の前にはこちらを不安そうに覗く真ん丸の瞳が二つ。黒じゃ、ない。「ねえ聞いているの?」綺麗な着物を纏った美しく、けれどまだ若い少女がそこにいた。誰だ?急な反転に戸惑いを隠せずに疑問を口にしようとするが、驚いたことに口は意思に反して動いた。
「少し、ぼんやりしていました」
聞いたことのあるような、ないような。だけどしっかりとした優しい低音が耳に届く。いったいどこで聞いたんだか。そしてまたしても意思に反して自分の口元はゆるりと弧を描き、こわばっただけど優しく大きな手はゆっくりと彼女の頭を撫でた。……何故。そんな指令、出してはない。唖然とする自分の思考だけが置いていかれているよう。いや、事実そうなのだ。体はある。大人の男のようだ。だがそれは自分の体であって“自分”の体じゃない。この体には、きちんと自分ではない主が意識を持ち支配している。いわば自分はこの体の目を通して世界を見ているだけの意識。まるで寄生しているかのようで奇妙。
「もう。寝てしまったのかと思ったわ」
「流石に寝ませんよ」
ふわりふわりと微笑み合う二人。体は当事者なはずなのに、自分はただの傍観者だ。だが、不思議と何か満たされるような感覚におちいる。寂しく、ない。わけのわからない状況なのに。しばらく観察していれば、どうやら目の前の少女はどういうわけかこの部屋から出られないようで。自分の側の男はそんな少女に外の話を聞かせているようだった。自分が何だかわからない今、目の前の彼女を勿論知らない。きっとこの体の持ち主のことも。
「ねえ ?私、サクラをいつか見てみたいわ」
「そうですね。私も と見たいです」
そしておかしなことに気付く。どうしても、二人の名が聞き取ることが出来ないのだ。聞き取ろうとひたすら耳を傾けるが、その部分だけ音が消えたように聞こえない。まるで靄がかかったように。どんなに聞き取ろうと尽力しようとも、結果は同じ。聞き取れない。それでもどうにかして名を知りたいと躍起になっている自分がいた。
知ることで何かが変わるとは期待していない。だが思っていないわけではない。この奇妙な状況から脱すには、聞き取れない名が鍵となるかもしれないからだ。靄がかかったよう聞き取れないということは自分にとって何かあるに違いないし、きっとそうに決まっている。そうでなければならない。
自分が何で、誰で、名もわからず、状況もわからない。どこまでも不安定で、そのくせ意識という思考は持っているために中途半端に恐怖を感じる。満たされてるはずなのに何かが足りない。欠けている。それがきっと、この状況に対して抱いている恐怖の対象。どうにかしたい。しかし体は自分のものでない。それがもどかしく、悔しい。どうすればいい。自分が“自分”になるには、どうすればいい。せめてこの体が自由に動かせれば何か違うかもしれないのに。そう願った瞬間だった。
「―――っ、」
不意に感じた違和感。妙に感覚が働く。まさかと思ってゆっくりと力を入れれば、先程までただ傍観するしかなかった体が、指が動いた。何故!?乗っ取ったのか、この体を?ならば本当の体の主は?訳がわからないまま理解はせずとも、しかしするべきことはわかっていた。乗っ取った今ならば、わかるかもしれない。聞き取れるかもしれない。
「名を、」
「え?」
「私の名を呼んで」
賭け、だった。聞き取れないかもしれないし、この状態はいつまで続くかもわからない。でも自分がわかるかもしれない機会をみすみす逃すわけにはいかなかった。早急に訊ねれば少し不思議そうに首を傾げながら少女は言った。
「―――夕霧(ゆうぎり)?」
瞬間、体中を雷のような衝撃が走り驚愕した。
―――夕霧。ああ、確かにそれを自分は聞いたことがある。だってそれはずっと聞いてきた言葉で、常に傍にあった。どうして、忘れていたんだろうか。
それが、己の名なのだから。
忘れたくないから忘れるんだ