この世には、あらゆる存在が認められる。見えるもの。見えないもの。多く存在する人間と同じ姿をしようとも、中身性質はまったく異なる存在もまた――この世には在るのだ。
「……ヴァン、パイア?」
飛鳥は眉を潜めつつも、おうむ返しのように今しがた聞いた言葉を繰り返した。ヴァンパイア。それは人と似て非なる存在で、鋭い牙を持ち、確か血を好む生き物。吸血鬼。話の中だけの存在。所詮は空想の生き物なはず。
「……それが、」
「そうだよ、私達だ」
とりあえず、と先程の「血が必要」発言につい問うてみれば、初っぱなからブッ飛んだ答えが得られようとは。いったい誰が予想出来ただろう。彼女はからかわれているのかと疑わしげに黒瀬を見つめた。しかしそのような色はうかがえない。ならば、と周りに座る五人に視線を投げ掛けたが誰一人として顔色を変えない。……信じられない。だがここにいる自分以外の皆がそれが真だと主張していた。
「…やっぱりいきなりそんなことを言われても困るよね、」
「いやいや絋さぁん。それが普通じゃない?ましてやこの子人間だしさー」
「うーん、難しい」
主に黒瀬が話を進めるなか、あまり口を挟まないようにしていたのだろうが、例の五人の内の一人が黒瀬にへらりと笑いかける。長めの髪と口調が醸し出す軽い雰囲気は今この場には似つかわしくないが、彼女に取っては多少なりとも気が紛れるものであったようだ。にこりとその彼に微笑まれ、少しばかり表情が柔らかくなった。……が、直ぐに強ばることとなる。
「あ、そうだ、日野森さん見てて」
一人頷いたかと思えば黒瀬は白衣の胸ポケットに差していたペンを徐に右手に取ると―――ズブリ。何の躊躇もなく左手の甲に突き刺した。思わず何が起きたのか理解出来ずに時間が止まった。数拍遅れて事態を理解した彼女は声を荒らげた。
「っ、先生!何して、!」
慌てて立ち上がった拍子にガタンと座っていた椅子が倒れるも彼女は気付かない程驚いていた。いきなり何故そんな行動をしたのかは考えている場合ではなかった。じんわりとペン先を押し退けて流れる紅が目に入る。今すぐに手当てをしなければ傷が広がってしまうだろう。しかし不思議なことに黒瀬は平気そうに苦笑いを浮かべていた。ふと冷静に戻り、周りを見渡す。あろうことか黒瀬があんな不可解な行動を起こしたにも関わらず、焦っているのは彼女だけであった。しかし数人は呆れたように溜め息を吐いている。
「大丈夫だよ日野森さん。……ほら」
「ひ、」
と。刺したペンを引き抜き、酷い傷口になっているだろうソコが彼女へと見せられる。唇の隙間からは小さく悲鳴がもれ、しかし次第に驚いた声に変わった。なぜならば、そこにあったのはペンを刺す以前となんら変わりのない無傷の手。しかし確かに刺したと証明する、傷口から流れただろう血が少し。だがそんな血の中に想像していた傷口は何処にも見られず、いくら目を凝らしても傷口があった様子は見られなかった。ありえない。理解出来ない。確かにあった傷口はいったい何処へいったいというのだろうか。考えられる可能性に、彼女は戸惑った。それは普通の人間ならばありえないことだから。
「……こんな早く、治ったんですか」
「そう。ヴァンパイアには人間よりはるかに高い治癒能力が備わっているから、傷は即座に治ってしまうんだ」
「……」
「見せたほうが早いかなと思って。驚かせて悪かったね」
何事もなかったのように右手をひらひらと振って見せる彼に、額を押さえて静かに飛鳥は息を呑んだ。とりあえず倒れてしまっていた椅子を戻し、腰掛けて自分を落ち着かせてみる。今のは現実に起きた事。この目できっちり見た。マジックでもなんでもない。種などない、真なのだ。
頭上では「もう絋ってば無茶苦茶すぎる!」「そうかな?」「絋さん、…もっと他にやり方が…、」「だってこれが手っ取り早いと思ったんだよ」と、なにやら言い合いが始まったが、彼女には気にしている暇はなかった。
理解してしまった頭が恨めしい。この人達は本当に人間じゃないのだ。信じたくないがあんなものを見せられては否定できない。しかしそう考えるとこの異様な雰囲気に思わず恐怖が芽生える。自分以外人間はいない。それがどれ程恐ろしいか。独り、仲間がいないというのは動物の本能的に危険だと警報が鳴る。たとえ相手に敵意がないとしても。背筋が無意識に伸び、嫌な寒気がゾクゾクと這い上がってくる。こちらに害をなすことはしないと判ってはいるものの、早くこの場から去りたかった。それでも彼女がそうしないのは、簡単には帰れない雰囲気と、自分に何らかの関係がある話をまだ聞いていないからであった。
「うーん、日野森さんガッチガチになっちゃったねえ」
すっかり血の気の引いた彼女の顔に、逆効果だったかな、と黒瀬は首を傾げる。そしてすぐにポンと手を打つと「あ、そうだを自己紹介しようか」と明るく話を切り替えた。どうやら名乗り合って少しでも緊張を解そうと考えたらしい。彼女以外の五人の顔には「今更か」という言葉がありありと浮かんでいた。しかし彼らとしては黒瀬が一番の年長者な為か誰もツッコミを入れる者はいない。落ち着いたのか彼女の顔色も少しばかり色が戻ったようだった。
▽
「じゃあまずは知ってるだろうけど私から。黒瀬 絋。ここでは養護教諭だよ」
彼のそれを皮切りに、一人一人が名乗っていくことになった。彼女は、多少噂で聞いていた名前と目の前にある顔達を一致させることに励んだ。
カーテンを開けた威圧的な彼の名は、夜川 伊吹(よるかわ いぶき)。目付きは相変わらず鋭く、まるで鷹のようである。
そして先程黒瀬が手にペンを突き刺す前に笑みを見せてくれた彼は、藍沢 雪(あいざわ せつ)。長めの髪と笑みが色香を振り撒いている。
一際可愛らしい顔立ちをしている彼は榊 侑李(さかき ゆうり)。ふわふわな蜜色の髪とその顔は、小動物を彷彿とさせる。
丁寧で優しい口調であり一番親しみやすい彼は、結城 英(ゆうき はなぶさ)。どこか黒瀬に似た雰囲気を持ち控えめそうなタイプであるが、その髪は金に輝いている。
そして、意識しなくとも肌で感じることが出来てしまう……絶対的な雰囲気を纏った―――、
「…香月(かづき)。香月 りお」
―――香月 りお。柔らかな黒髪から覗くその顔立ちは、まるで人形。動かなければ本当に生きているのか確かめたくなるほどに。否応なしに、釘付けにされる。
と。
「(っ、)」
以前に目があったような気がしたあの瞳が、今度は確かに彼女の瞳を捕らえた。しかし何かがおかしい。以前に見た瞳とは決定的に異なっている。僅か数秒の後、それに気付いた彼女は目を見開いた。
「瞳、が」
黒かった彼の瞳は、燃えるような紅に染まっていた。紅い紅い、まるで血の色に。
窓の外。暗い闇夜には、紅色に輝く丸い月がただぽっかりと浮かんでいた。
紅い月は昇った