久しぶりに悪夢を見なかった。
「(ふう、)」
目覚めた時、飛鳥の身体はよく眠れたという満足感で満たされていた。視界に入るは白。昨日に引き続き、今日も保健室でお世話になっていたのだと理解するのにもそう時間はかからなかった。寝ぼけ眼でゆっくりと音も立てずに上半身を起こし、ベッドから足を下ろす。黒瀬に飲むとしばらくは安眠出来るというティーを勧められたおかげか、悪夢を見ることもなく熟睡した。そのためか時間の感覚が少々わからない。いったいどれ程の時間を寝ていたのだろうか。きょろきょろと周りを見渡し時間のわかるものを探すが、カーテンで仕切られているせいか時計も外も見えない。仕方なくカーテン内から出ようかと、立ち上がろうとした瞬間だった。
「―――どうする?」
聞いたことのない男の声が、カーテンの向こうから聞こえた。あきらかに黒瀬のものでないソレに、思わず動きを止めて聞き耳をたてる。よくよく神経を尖らせてみれば他にも聞こえる気配や声。どうやら黒瀬のほかに何人か人がいるようだった。いったい誰だろうか?疑問に思ったところでのこのこと出ていける程、心は強くない。仕方なしに彼女は音を立てないよう静かにベッドに腰を下ろした。
「なら彼女は」
「でもおかしい」
「匂いが」
「なんて言うわけ?」
「まだわからない」
「待て」
「でもさ、もう決まりじゃんか」
「確かに」
勝手に話を聞いてしまうのには悪いと思ったが、不可抗力である。しかし話に耳を傾けたはいいが、何の話をしているやらわからない。何か相談事をしているようだが、小声で話している上カーテン越しもあって所々聞き取れない。
「(暇だ)」
意味を成さない言葉のはし切れを聞いていたところで、つまらないだけ。興味が削がれるのも早々に、この仕切られたスペースでただジッとしていることにもいい加減ストレスが溜まってきたようで、彼女は不満からか自由に動けないことに小さく眉を潜めた。今更だが面倒なことになってしまった。早く出たいと言うように、彼女の手がぎゅっと握られた。
どうやってここから出ようか。唯一仕切られたカーテンの内側から見える天井に視線を這わせながら、彼女はぼんやりと思案する。話が終わるまで待つ、なんて考えは先が見えなさ過ぎて不採用。今更だがたった今起きました風を装ってみようか?いや、わざわざ音を立てて寝返りでも打ってみたらいいかもしれないが、この状態じゃまた寝そべるまでに余計な音がたってしまうだろうから駄目か。ならばいっそ、堂々と出てしまおうか?…まあ、そんな勇気があるならば起きた時点でやっている。彼女は結局ジッとすることに落ち着いた。そんな時だった。興味をなくした会話の中に、ふと「日野森 飛鳥」と自分の名前が聞こえた気がした。
「(今の、私の名前?)」
途端に会話に注意を向けてみれば、やはりもう一度そこに名前が上がった。何故、自分の名前が。不審に思った彼女は再びその言葉達を聞き取ろうと聞き耳をたてた。
「―――とにかく、日野森 飛鳥の血が手に入りゃいいんだろ?」
すると驚くような言葉が聞こえ、彼女は思わず息を呑んだ。その際どうやら小さく声が出てしまったらしい。
「……おい、起きてんのかよ?」
恐ろしい言葉を放ったどこか荒々しい声が確信したようにそう言い、ツカツカとこちらに歩みを進める足音が響く。彼女が慌てて口元に手を当てるも既に時遅し。カーテンがシャー、と引かれる音がしたかと思えば、そこには背の高い黒の短髪の男子生徒が仁王立ちで彼女を見下ろしていた。威圧的な背の高さに思わず恐縮してしまった彼女は、数拍遅れてその男子生徒があの美形五人集の一人だと気づいた。だとすれば、おそらく他にいる人達は美形五人集の残りの人達に違いない。一度出ていったはずなのに、再び集まっていたようだ。
「んだよ、起きてんじゃねえかよ」
いつの間にか静まり返っていた部屋。ジロリと切れ長の瞳が彼女を捕らえた。まるで悪いことをしてしまったような気分に陥る。言い訳も何も意味をなさないと悟った彼女は、その瞳から逃れるように俯いて自分の足元をただ見つめた。
「―――日野森さん、起きたんだね?よく眠れた?」
「…、黒瀬、先生」
ふと聞いたことのある声が聞こえ顔を上げれば、男子生徒の背後から覗きこむように黒瀬の顔がこちらに向けられていた。知った顔を見たからかどこかホッとする。
「ごめんね、伊吹(いぶき)恐かったでしょう」
「はあ?俺のどこがだよ」
「はいはい、とりあえずどけて」
伊吹(確かに噂で聞いたことある名前だ)と言う彼が、黒瀬にカーテンの外へと追い出されて行く。ちらりと見えたカーテンの向こう側には、やはり予想通りあの五人が揃っていた。皆こちらに視線を向け、それが彼女には恐ろしく見えた。
「その様子だと、話聞いてたかな?」
「あ……、」
困ったように笑う彼も、安心は出来ても今は信用出来ない。その問いかけに警戒しながら彼女は「少しだけ」と素直に答える。この人達は自分についてなんとも物騒なことを話していたのだ。下手な受け答えなどしたら危険かもしれない。
そんな警戒心剥き出しの彼女に、黒瀬は聞かれた内容を理解した。確かにその通りの内容で、彼女に警戒されても仕方のないこと。しかしそれを訂正するつもりはない。本当のことであるからだ。
「……ねえ、日野森さん。私達の話、聞いてくれないかな」
ビクリと肩を震わせ反応する身体。彼女はそれに従うべきか迷った。先程聞いた内容だけだと、確かに物騒な話だった。弁明だかなんだかはわからないが、話を聞いたら最後。何か危ないことに巻き込まれるかもしれない。あっちが何を考えているのかもわからない。圧倒的に自分が不利な立場にいるのだ。
「……わかり、ました」
それでも彼女は小さく頷いて黒瀬の後に続いた。黒瀬の瞳には、こちらに危害を加える色など少しも見えなかったからだ。少なくとも、黒瀬は信用できるかもしれない。
カーテンの外へ出れば、幾つもの瞳に晒される。居心地の悪さに眉をしかめつつも、ふと窓の外に目がいった。暗闇だった。つまり、夜。いつの間にか学校も終わり、夜になっていたらしい。深い深いその色。それが途端に心細さを浮き彫りにさせ、気味が悪いと感じさせる。いったいこれから何がどうなるのやら。不安が胸を占めるなか、もう後戻りは出来ないと彼女はなんとなく悟った。自分が頷いた時。あれが最後の逃げ道だったのかもしれない。
「―――さて、日野森さん。覚悟はいいかな?」
彼女が腰を下ろしたのを合図に、黒瀬が微笑む。逃げ道はない。前に進む道しか、彼女には残っていない。
透明な道を歩く