弱く陽射しの差し込む廊下を、一人の少女が頼りなさげな足取りで歩みを進めていた。五月といえど、まだ廊下は肌寒い。ぶるりと肩を震わせた彼女は、足早に一歩を踏み出した。
彼女の名前は、日野森 飛鳥(ひのもり あすか)。この星蘭(せいらん)高校の二学年に所属するごく普通の少女だ。そんな彼女が目指すは保健室。目的は―――ただ、睡眠を貪るためだ。
ようやくたどり着いたらそこ。霞む視界にぼんやりとしながらも、飛鳥は保健室の扉に手をかけた。
「……失礼、します」
指先に重く感じた扉の先、一瞬眩しくて目を細めた。しかしすぐに視界に色がついて、デスクに腰かける白衣の男が目につく。その白衣の彼はこちらに気づいて視線を向けてくるや目を酷く驚いた様子で見開いた気がしたが、睡魔に邪魔されて理由を考える余裕はなかった。しかしなるほど、女子に噂されるだけあって美形だ。こんなに近くで見たのは初めてだと近づいてくる白衣の彼をぼんやり見上げながらも「寝不足なんです」と伝えれば、白衣の彼は彼女の状態を即座に判断したのかベッドへと誘導した。カーテンに囲まれたベッドの上で、白い布団を被ればすぐに睡魔は眠りへと誘い始める。もちろん、飛鳥とて喜んでそれに従いたかった。しかしそうしたくない理由もまた、あった。
彼女が寝不足になってしまった理由で、彼女が眠ることを苦痛に感じるようになった理由。―――悪夢、だ。それはここ最近、二週間ほど前から寝ると必ず見るようになった。最初の内は気にせず眠った。しかし徐々に苦痛に代わり、しばしば夜中に目を覚まし寝付けなくなり、そして寝ること自体が辛くなった。睡眠は人間の生理的欲求であり、なくてはならないもの。ギリギリまで寝ずに過ごした結果がこの様である。授業を受けることすらままならずに、保健室にかけこんだのだ。
頭まで布団を被り、欲求のままに眠りにつこうとする身体を理性が止める。寝たい。けれど苦痛を味わいたくない。でも寝たい。頭の中はそれの繰り返しで、終わりそうにない。しかし身体は限界だった。ゆっくりと閉じる視界に、闇に沈む意識。ぷつりと糸が切れたように動かなくなった彼女は、いつしか眠りについていた。
▽
憎い。
ああ、憎い憎い憎い。赦せない。どうして。なんで。なぜ。何をした。何が悪い。何が駄目。どうすればいい。何をすればいい。どうしたら。そうか。何をしても無駄なのだ。そうだ。無駄。無駄。無駄。意味がない。いっそう、アイツらが憎い。赦せるわけがない。
憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い―――。
ならばいっそ―――キ エ テ シ マ エ
「―――っ!」
「大丈夫!?」
ガバリと跳ね起きるように身体を起こす。心臓がバクバクと鳴り響く。……悪夢だった、いつもの。夢だったと理解すると同時に、こちらを覗きこむ二つの瞳。視界の端には白が揺れる。そうだここは保健室だった。そこで眠りについて―――悪夢をみた。しかし今のはいつもと異なった。耳元で囁かれたかのようにあの言葉が耳に貼り付いて離れない。怨みと悪意に染まったあの言葉は初めてだった。
「魘(うな)されていたようだけど、」
白衣の彼は、眉尻を下げる。彼女はそっと、苦笑した。
物語の幕は上げられた