昔々。人間に恋をした人魚は、海の魔女と取引をして、自分の美しい髪と声を引き換えに人間の足を貰った。しかし、恋をした相手は王子であり、人魚はその恋が叶わないことを知った。 ―――さて、取引にはこんな条件があった。
『恋が叶わない人魚にあるのは、泡になって消える未来のみ』
助かるにはただ一つ。愛する相手の心臓を短剣で一突きすればいい。
しかし人魚は、出来なかった。愛する相手を己の手で消すことなど出来なかった。たとえ結ばれなくとも、愛する相手には生きていて欲しかったのだ。
そうして人魚は泡になる道を選び、大きな海の一部になった。…ただ、愛した王子の幸せを願いながら。







「―――信じらんない全く違うじゃん。え?あり得ないくらい脚色されてるんだけど!」

静かな午後のティータイム。美しい金の髪を揺らめかせながら、これまた美しい青の瞳を持つ美しい顔の、少女とも女性ともとれないその中間を行き来する歳だろうか、彼女は眉を潜めた。
可愛らしいティーカップを持つ右手の反対の手には、小綺麗に綴じられた一冊の本。タイトルは『人魚姫』―――今巷で人気急上昇中である人魚と人間の悲恋話である。

「まあまあ、仕方ないじゃないか」

そんな彼女をケラケラと笑いながら慰めるのは、艶のあるウェーブがかった黒髪を持つ大人の女性。その容姿は恐ろしいほど色香を放っている。
そんな女性に金の髪を持つ彼女―――もとい、 サファイアはム、と頬を膨らませて反論した。
実を言えば、この『人魚姫』のモデルとなったのはサファイアなのである。つまり彼女は元人魚。今はどこからどうみても人間で声は失っていない、しかし今でも彼女は人魚の特徴である不死身だ。泡になって消えたことなど一度もない。そして黒髪の彼女は話にでてくる魔女。だだし、別に“海の”ではない。普通の魔女だ。
そして今サファイアが怒っている理由とは、伝聞として人魚姫の話が伝わる内に全く別の話になってしまっているからである。

「あの王子を愛していた?幸せを願ったって?うわあ、寒気がするわ!」
「ふふ、アンタ監禁されてたものねえ」
「そうよ!ていうか、王子の命令で私を人間にしたあげく、献上したのはアナタでしょーが!アルル!」

アルル―――魔女である彼女は、そうだったっけ?と惚けるものの、結局はサファイアに負けて悪かったわよ、と謝った。
巷で人気の『人魚姫』―――事実、ほとんど真実とは違っていた。
まず第一に人魚は恋などしていない。逆に人魚に恋した我が儘王子が、魔女であるアルルに命じてサファイアを捕らえたのだ。そして人魚では契りを交わせないと、わざわざ人間にまで姿を変えさせた。しかし、あまりに嫌がり抵抗し瀕死になりかけたサファイアを見たアルルが、これはいけないとサファイアを連れて逃亡。王子には“誠実さ”と“本当の愛”を身に付けられるようになるまでは人魚姫を返さないと伝言を残し、出来なければオマエは霧のように消えると呪いをかけた。
結局王子は霧のように消える破滅の道に進み、それ以来彼女達二人は一緒に暮らしている。

「まあ、何百年も前じゃあ、変わっちまうもんだろうさ」
「でも、イヤだよこんなの!私はあんな奴好きじゃなーい!」
「はいはい、それは十分知ってるよ」
「アルルだけが知ってても意味ないじゃない!あああ、国中の人が、人魚姫は王子を愛していたなんて思ってるんだわ!なんて屈辱……!」

先日売れ出した『人魚姫』に騒ぐサファイアを見て、アルルはフゥと小さく溜め息をついた。過去に己のせいで陸にあげられた彼女を育ててきたはいいが、いささか甘やかし過ぎたかもしれない、と。
しかしそれも仕方ない。あれ以来サファイアが信用する者はアルルだけ。人間は我が儘で貪欲なのだと彼女は思い込んでしまっているらしい。まあ、それにはアルルの加担も少々影響している故に必然的にサファイアを可愛がってしまうわけである。
恋でもしてくれれば、少しは変わるかもしれないのだが。

「……ねえ、聞いてるアルル?」
「あ、ああ。なんだい?」
「だから!私、この『人魚姫』を書いた人を探して文句言ってくる!」

突然の宣言に、アルルは漆黒の瞳をぱちくり。そして笑った。

「アンタそりゃ、文句言ったって本が無くなるわけじゃないよ?」
「わかってるけど!それは仕方ないってわかってるけど。でも一言文句言わなきゃ気がすまないのよ!」
「ふうん?ならそれは一人で頑張るのことだねえ。アタシは文句ないもの」
「、わかったわよ」

あっさりと背中を押されたサファイアは少々心もとなさを感じながらも、一人で『人魚姫』の著者に抗議しに行くことを決めた。
そんなサファイアを見て魔女アルルは得意の未来予知で何か“みえた”ようで「ほお。こりゃもしかしたらかい…」にんまりと赤い唇を伸ばしていたことをサファイアは知らない。




「ふーん?ここね」

数日後。サファイアは街外れにある小さな家の前に仁王立ちしていた。この目の前にある家こそが事実と異なる『人魚姫』を書いた張本人が住む家らしい。街で聞き回ればあっさりと判明した。
名前は、ルーク。男。最近までは本書きじゃなくて近くの店の料理人をしていたらしい。何故か辞めて本を書き出したそうだ。しかし相手が誰だろうと文句はきっちりいわねば!と言わんばかりに彼女は躊躇なくその家の扉を叩いた。
すぐに「はーい!」と聞こえたはいいものの、それに続いてガラガラドシャーンと何か崩れる音と「うわ!」と叫ぶ声。…なんか、大丈夫かしら?と不覚にも心配になりながら、「は、入るわよ?」彼女はそっと扉を開けた。

「……まあ」
「あ、はは、いらっしゃい」
「アナタ、笑ってる場合じゃないわよ!」

扉の先の光景にサファイアは絶句して固まり、そしてすぐにその場に駆け寄った。そこには、倒れた本棚と本達に埋もれ、身動きのとれない青年がいたのだ。いくら本は凶器ではないとはいえ、あんなにたくさん身体の上にあったら苦しいに決まっている。それなのにへらりと笑って「いらっしゃい」なんて。抜けてるわ。

「いやあ、すみません」
「いいから、ほら掴まって」
「ありがとう」

よいしょ、と本の山からその身体を引っ張りだしたサファイアにその青年は律儀に何度もお礼を述べるのだが、サファイアはなんというか拍子抜けしていた。
料理人でそれを辞めて本書きになったと言うから、てっきり『人魚姫』を書いたのはもっと歳のいった人だと思っていたのだ。それなのに今目の前にいるのはひょろりと背の高い、なんとも弱そうな青年。中性的な顔は、女性に見えなくもない。ふうん、悪くはないわね。でも。

(本当にこの人が書いたわけ?)

不思議そうにボーッと凝視する彼女に、青年は照れたようにこりと微笑む。それにようやく我に返ったサファイアは、騙されてはならないと首を振った。

「アナタ!」
「は、はい」
「あの『人魚姫』を書いたらしいじゃない、それは本当なの?」
「え、ええ。あれは俺が書きましたけど…」
「そう…。なら言わせてもらうけど、あの『人魚姫』はないわ、あり得ないわ!人魚が王子に恋したなんてとんでもないわ!」
「はいいい?」

小さな家には、青年ルークの驚く声が響き渡った。



――――どうしましょう。
しばらくの後、文句を言いに来たはずなのに、何故こうなったのかしらとサファイアは後悔し始めていた。

「――それではサファイアさん、アナタがあの本物の人魚姫なんですね!」
「え、ええ、まあ」
「うわあ、本物に会えるなんて光栄です!」
「あ、ありがとう」

いきなり文句を言われたにも関わらず怒るでもなく丁寧な対応をしてくれた青年に、自分がその人魚姫だと本当の話をしてやればたいそう嬉しがった。そういう話が好きらしい。ぐいぐいと食い付き質問する様はサファイアを圧倒させるほど。ひょろい身体のどこにその熱意があったのかと驚いた。
普通ならいきなり自分の作品にダメ出しされたら嫌だろうに、この人は寧ろ嬉々として話に耳を傾けているではないか。サファイアは出された紅茶を一口いただきながら変な人だと思った。こんな人間もいるのか。

「…でもすみませんサファイアさん。俺が『人魚姫』を書いてしまったから、嫌な思いをさせてしまいました。ごめんなさい」

本当にすまなそうにしゅんと項垂れるルーク。ああ、本当にこんな人間もいるのね、とサファイアは改めて思った。

「……ねえ、」
「え?」
「アナタ、私が嘘を言ってるとか思わないの?」

そう思ったら、ふと、意地悪をしてみたくなってニヤリと怪しげな笑みを浮かべてみる。
だって人魚よ?話の中にでてくる人魚が目の前にいるのよ?食べたら不死身になれるかもしれないし、先程見せたが鱗だってまだ少し残っているから捕まえて見世物小屋に売ることだってできる。なのにそれをしようとしないなんて。
いいえ、もしかしたら優しい顔をして実際はそういうことを考えているかもしれない。まあ、実際捕まりそうになってもこうみえて人魚のほうが力はあるからなんとかなるけれど。
そこまで考えていれば「だ、だってアナタは優しい人だから」とさも当たり前のように返されてしまった。「……っ、」……やっぱりどっか抜けてるわ、この人。本物だ。

「……アナタ、変な人間ね」
「え、あ、ちょっとキザでしたね、へへ」
「でも、……気に入ったわ」
「、はい?」

何故か急激に声が小さくなったサファイアの顔はどうしたことか赤く色づいている。そして青年ルークのほうも赤くなるサファイアを見て赤くなってしまった。


―――さてさて、この若い二人がその後どうなったのかはご想像におまかせしよう。様々な試練を乗り越えつつも、とりあえず魔女の予知通りになったとでも言おうか。
とにかく、後世には新しい『人魚姫』の物語が伝わったとかなんとか。それは悲恋話ではなく、一生を共にした男女の恋物語だそうだ。
おしまい。










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