「風がない・・・っ!」



愕然とこぼした独り言は、もわっと纏わりつくような空気に溶けて消える。

京都の夏は暑い。
それはきっと、私が元いた時代の暑さよりはマシなのかもしれないけれど。
剣道の稽古中、道場の蒸し暑さには慣れているはずの私だけれど。
だけど暑いものは暑い!
それに、ここ数日の暑さは間違いなくこの夏一番だと思う。

長州藩邸の縁側で拭き掃除をしていた私は、一段落して水桶に木綿の雑巾を浸して揺らしながら、ふと庭先に視線を向けた。
西に傾きかけた日がそこここに影を落としているものの、青々と繁る緑はピクリとも動かない。
それどころか、夕方になって一層ボリュームを上げた蝉の鳴き声に、どっと汗が噴き出た。

ダイエット?
・・・いや、我慢大会?

クラクラ眩暈を起こしそうな暑さをなんとか耐えようと瞼を閉じる。

(暑い暑いって思うから余計暑くなるんだよね・・・)

涼しい想像をすれば、気分だけでも涼しくなるんじゃないかな、うん。
えーっと、そうだ、今は冬、で、雪も降ってて、池には氷が張って、軒下にはツララが垂れ下がってて・・・

(・・・お?なんか、いい感じじゃない?)

目を閉じたまま想像する世界は、どこまでも真っ白で、キンと張り詰めた空気が身体を包み込む。

・・・で、冬といえば、雪だるま、雪合戦、あとは熱々のお鍋やコタツで蜜柑・・・

(コタツ・・・・・・)

だ、だめだめだめだめ!
今は切実に涼を求めてるっていうのに、余計暑くなる事考えてどーするの、私!!

慌てて目を開いてさっきまでの思考を止めようと頭を振っていると、俄かに騒がしい気配が近付いてくるのを感じて動きを止めた。



「・・・ーっ!ハルーっ!」



私の名前を呼ぶ声が、すごい勢いで此方に向かってきている。

(・・・あ)

と思う間もなく視界の先に現れたのは、ここ長州藩邸の主人である高杉さんの姿だ。
私と目が合った瞬間、彼は「ハル!」と満面の笑顔になって走ってきた。



「高杉さ・・・「どわーーっ!!」きゃーーっ!!」



すごい勢いで私に向かって来た高杉さんは、足を滑らせたのか文字通り飛び込むように私に抱きついてきて、2人してバランスを崩し倒れこんでしまった・・・のだけど。
当然、頭やお尻や身体中に受けるだろうと、咄嗟に瞼をギュッと閉じて覚悟した衝撃は殆ど無い。
その代わりに、身体を優しく包む熱いくらいの温度を感じて、そろりと目を開けた。



「・・・ってぇ・・・っと、悪い!ハル!怪我はないか!?」


「・・・・・・・・・だ、だいじょ、ぶ、です!」



間近に、心配そうに私を見つめる高杉さんの顔がある。
咄嗟に私をかばってくれたのだろう、高杉さんの腕はしっかりと私の後頭部と腰を支えるように回されていた。
おかげで痛みは殆ど感じないものの、吃驚して心臓がバクバクしている。
気温の高さからなのか、自分の体温が上昇したからなのか、分からないけどこのままじゃあ確実に溶けてしまう。
そんな私の心中に気づいているのか、いないのか・・・
怪我してないか確かめるように覗っていた高杉さんは、私の返事を聞いてホッと息を吐くと、すっと身体を起こして再び笑顔になった。



「ハル、お前、張り切って磨き過ぎだぞ!?」


「・・・え?」

「お前の掃除のおかげでピカピカだな!滑りまで良くなってるぞ!」



何度も瞬きを繰り返す私の目の前で、カラカラと笑ってみせる高杉さん。
廊下なんかよりよっぽど、高杉さんの笑顔の方がピカピカしている。



「・・・もう、高杉さんが勢いよく走ってくるからですよ!」


「あー、許せ!それよりハルに見せたいものがあるんだ!」


「え、高杉さん、確か今日は仕事で出掛けてたんじゃ・・・」


「そんなもんはとっくに終わらせて来たぞ!ほら、さっさと立ってオレについて来い!」


「ちょ・・・待って下さいよ!」



出逢った日から今もずっと、高杉さんはいつだってこうだ。
私の心をこれでもかってくらい翻弄して、振り回す。
だけど、それが嫌じゃない・・・っていうか寧ろ嬉しかったり楽しかったり・・・そんな風に感じる私は、きっとこの人の強烈な魅力に惹かれちゃってるんだろう、と思う。
だって、さっきまで茹だるような暑さに滅入っていた心が、何処に向かっているのかも分からないのに高杉さんに手を引かれて一緒に走ってるってだけで上向いてきてるんだから。
さっきまで止まっていた風が、今は音をたてて私の横をすり抜けていく。


・・・ああ、高杉さんの周りには、いつだって気持ちイイ風が吹いているみたいだ。


力強く私を引っ張って前を走る高杉さんの背中。
自ら風を起こして駆けていく背中を見つめて、そんな風に思った瞬間。



・・・チリンチリーン



前方から耳に届いた、どこか懐かしいような涼しげな音にハッとしたのと同時だった。



「・・・わぷっ〜〜っ!?」



唐突に足を止めた高杉さんの広い背中に、走っていた勢いのまんま顔面をぶつけてしまった。



「何やってんだ!大丈夫か?」



(・・・っ、何やって、って・・・)

高杉さんがいきなり止まるからじゃないですか!
そう言おうとして、潰れたかと思われた鼻を両手で覆って、ツンとした痛みをなんとか堪えて顔を上げると・・・



「・・・・・・!」



振り返った高杉さん越しに見えた光景に、目を見開く。
驚いて、痛みも高杉さんへの文句も全部吹き飛んでしまった。



「ど、どうしたんですか、これ!」



藩邸の中央に位置する渡り廊下のような場所。
その軒先にこれでもかってくらいに沢山並んで吊るされたモノが、西日を受けてキラキラしている。
思わず一歩進み出て手を伸ばした先には、まあるい形の透明な吹きガラスに紐で繋げられた色とりどりの短冊。
さっきまで私がいた場所より、風通しが良いのか・・・ひらひらと風を受けて舞う短冊に合わせて心地良い音を奏でている。



「風鈴の音は魔よけに効くというからな。この音が聞こえる範囲に災いは起こらんらしいぞ。これだけ吊るしときゃ強い風が吹いた時には藩邸中に響き渡るだろう!」


「・・・・・・・・・」


「夏の風物詩ってくらいだからな、見た目にも涼しげで良いだろう?」


「・・・・・・ふふ、確かに、季節外れのツララが垂れ下がってるより、風流な気がします」


「氷柱ぁ!?」



私の台詞を聞いて思い切り困惑した表情を浮かべた高杉さんに、ついさっき暑さを紛らわせる為に想像していた事を説明すると・・・



「はっはっは!やはりハルは面白い事を考える奴だな!」


「・・・・・・それって、褒めてますか?」


「ははっ!まあ、情緒の欠片もないがな!」


「・・・・・・ソレ、いくら魔よけとか風物詩だからって、こんなに数え切れないくらい風鈴ぶら下げちゃう高杉さんには言われたくないです」



ちょっと拗ねたフリして頬を膨らませてみたけれど、結局、無邪気に笑い飛ばした高杉さんにつられて私も笑ってしまった。





風鈴が笑った日





そんな私たちの間を湿り気を帯びた夏特有の風が吹き抜けると、一際大きく音を響かせた風鈴。
その音はまるで自分達と一緒に笑っているようで・・・ふと高杉さんに視線を向けると、彼も私を見て同じように感じているのが分かる。

そんな些細な事が嬉しくて、私たちは顔を見合わせてまた笑った。










110718/花見月参加作品
130110/加筆修正



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