長く赤い絨毯引きの階段を、彼は私がドレスの長い裾を踏まないように、慎重に、丁寧に、導いた。
その手は心地よく冷たかった。
テラスはフロアを一望できる高い位置にあり、二人しかいなかった。いちばん見晴らしが良い場所を選んで、小さなテーブルを前にして腰掛けた。
ちょうどワルツが始まる。
重厚な曲に合わせて参加者は優雅に回り出す。くるくる、くるくる回る。フロアは優雅にはためく燕尾服とドレスの裾で満たされてゆく。
「……美しい」
と、彼は言った。恍惚とした独り言のような雰囲気があった。
「何が美しいのかしら?」
私は敢えて訊いた。
どうしたってこんな人間の汚れの塊のような場所に彼がいることを信じたくなかった。こんなもの、知らなくたって生きていける。
彼は私の言葉が聞こえないかのように前を向き座り直し、私は質問をし直した。
「このパーティにダンスをするでも、バトルをするでもなく来たのなら、他には?」
フロアがどよめき、拍手喝采が湧き起こった。誰か有力者がバトルに勝ったようだった。
彼はぴくりとも動かなかった。
私は返答を急かさず、音楽に耳を傾けながら、舞踏会を背景にした肖像画と化した彼を眺めていた。
いつまでそうしていただろうか、答えは突然に返って来た。
「ひとを、探しに」
「それは誰?」
間髪を入れずに続けた。彼が再び絵画と化す前に。
彼は額の近くの空をつまんだ。ちょうどキャップを被り直すような仕草だった。さては、困惑している。
手が空をさまよい、膝に戻された。
「……探しているのは女の子。理想を求めるかつての英雄。いや、今もそうだ」
「僕は真実を求める英雄として彼女と何度も戦った。
それから僕と彼女は道を分かち、僕はあちこちを旅している。
世界は黒と白でも、灰色でもない。一つ一つ色も形も大きさも、すべてが違うモザイクピースが織り成している。そのことを、日々実感している」
「僕には未来を見る力がある。それは僕の中の大きな空白を糧にした力だ。いま、世界のピースを知れば知っただけ、僕の中の大きな空白は埋まりつつある。引き換えに、この力は消えようとしている。
終点はもはやそう遠くない、けれどまだ終わりでもない。
なら、僕に出来ることはなにか?
そう問い掛けて、ようやく僕は旅の間中、美しいも醜いも存在し得ないたったひとつのニュートラルなピースのことを考えていたことを思い出した。
そのとき僕が見た未来は、そのピースが自身に決定した未来を、僕が自ら赴いて訊くことだった」
黒い仮面がことりとテーブルに置かれる。ああやっぱり。頭のどこかで納得する。本当に、あんたなんだ。懐かしさで胸がいっぱいになる。
こんな汚れた世界を知ることを引き換えにして力を失ってしまうなんて。けどきっと、その力はあの子供部屋に閉ざされたあんたを出してあげるためにあったもので、今のあんたには、もういらないものなんだ。
「この地に戻るつもりはなかった。旅は前に歩み続けることに意義があるのだから。でも未来はそれを破らせた」
纏められていた薄い緑の長い髪が肩に流れる。
なんてキレイなんだろうと、息を呑む。
「さあ、僕のことはこの位にしよう。元気だったかい、ホワイト。本当に久し振りだね」
あまり考えられない頭で、うん、と頷く。
特徴の無い声、それも特徴だったこと。どうして、すとんと抜け落ちていたんだろう。
「それじゃ、改めて訊こう。
――キミよ、夢は持てたか?」
彼の背後に、私は青空に浮かぶ半月の色をしたトモダチの姿を見る。
ここにあの時の彼がいる。
しかし今の方がずっと穏やかで、汚れたこの宴にありながら、力強い陽の光に満ちて清らかだ。
「あたしは、歌手になる」
「旅をしてて分かった。
ぽやっとしてるベルがどれだけ世渡りがうまくて、チェレンが何でもよく考えてて、博士やジムリーダーさん達やアデクさんがすごかったか。
…それからあたしが、あんたにココロを折られても当たり前なくらいのーなしのバカだったかも」
「だから歌で世界のみんなを起こしたいの。
みんなぼーっとしてちゃ駄目だって。もっと目も耳も大きくして、いろんなことを知って欲しいって、あたしなりに思ったんだ。
で、もしもあたしの歌で誰か一人でも起きたとき、その寝起きの人に寄り添えるような歌もうたいたい」
「そうやってさ、この未来をあんたが見ている予定通りの未来じゃない方に変えたい。
うーん、そうやってあたしが動くのも予定通りの未来って感じもするけど、とにかくあたしはそうしたいんだ」
あと、あと、歌でなら……隣に居られるし。
「それは誰の?」
宴の最高潮、小さく呟いてかき消されるはずの言葉が拾いあげられてしまう。
「……なんで聞こえちゃうかなぁ」
「口を見ていれば良いだけの話さ」
「あんたってどこまで天才だったら気が済むの?」
二人の間に小さく笑いが起こる。
「……不思議だと思わないかい。こんなに短い期間で出来たことと出来なかったことが入れ替わっていく。
これが、完全な人間になるための代償なのかな」
また、一曲が華々しく終わる。彼は遠くを見ながら笑う。
光が強ければ落ちる影も強い。光の源が必ずしも暖かくて好いものだとは限らない。
「やめなよ」
「………」
「昔は、あたしだって、ぶっちゃけあんたなんてイミ分かんなくてメンドーでイヤーなやつだって思ってたよ。
でもね……それはとりあえず、イミ分かんないあんたを分かったように思いこみたかっただけなの。
人間ってそんな風に簡単に決めつけていいもんじゃないのにね。
そもそも何を持ってるから完全だとか何がないからそうじゃないとか、あたしにはまったくわかんないし、そんなの誰が決めるってものじゃないと思う。
世界は白でも黒でもグレーでもなくて、いっぱいのモザイクピースでできてるんでしょ。それ、あんただってそうだよ。あんたのひとつひとつも、モザイクピースでできてるんだよ。
だからそんな風に決めつけて欲しくない。とくに、あんた自身には」
「僕は、不完全でも、完全でもない?」
「そう……昔も今も、いつでも」
「君は正しい。でも今まであったものがなくなってしまうのは」
「……怖い?未来を見る力を失くしちゃうのが、そんなに」
「……うん」
とても怖い、まるで全く違う僕になってしまうようで……。
絞り出すように彼は言う。これまで見てきた王様の像とはかけ離れた、弱々しい姿。
「だいじょうぶ。ずっと頑張ってきたから、これからはそんなこと気にせずに思いっきり楽しいことしていいよってことだよ。
好きなことするのにそんな力持ってたらうっとうしいだけじゃん。ん、これは自信もって言える」
それにさ、ショミンの苦労だって思い知らないと良い王様になれないぞ! と付け足す。
彼は目をぱちくりさせた後、深く深く、頷く。彼女と目を合わせて、にっと笑う。
「もう王様を名乗るつもりはないけどね」
「あ。……ごめ」
「いいんだ」
彼は肩を揺らして笑いだす。
「……ほんとのホワイトに戻った」
「違う、間違って自分で化けの皮剥しちゃったの!あたしだってもうちょっとおしとやかに過ごしたかったよ。誰のせいだと思ってんの?とゆーかその名前で呼ぶのやめてよ」
「どうして?君のトモダチにまで徹底して叩き込んだお気に入りのコードネームだったのに。僕と国際警察のお尋ね者になれば使い放題だよ」
その言葉に彼女は吹きだし、しばらく制御不能になる。落ち着いた頃、立ち上がるように促される。
向かい合わせに彼女の仮面が外され、シンバルの合図で次のワルツが始まり、二人はステップの真似事を始める。
驚くほどリードが上手いことに彼女は内心憤慨する。反則、と言う視線に気がついた彼は片目をつぶる。空白と引き換えに彼は世界からあまり必要のないことまで学んだらしい。
昔と変わらない、その澄んだ瞳の中にすっかり『あたし』に戻った彼女の顔があったのは、彼のトモダチの力に依る所なのかもしれない。彼等の力は時として世界の理さえ曲げてしまうのだから。
けれどその力は、いずれフィナーレを迎えてしまうこの一曲と宴には働いていなかった。
彼はひとまずの目標を果たし、この時が終われば昨日までのように分かれた道を歩んでいく。
彼女はいつのまにかそれが不満だった。自分よりはるかに小さくて華奢な手が愛おしくてたまらない。もう離れたくない。彼もまた、握った手の温もりを通じて、今まで襲われたことのない感情の波に呑まれそうだった。
「……ねえ」
ふとステップを止め、彼女は彼の胸に頭を預ける。ゆるく波打つ栗色の毛はゆっくりと梳かれ、込み上げる熱い雫が頬を伝う。
「……さっき、何がキレイだったの?」
どうせ、くるくる回る人達のことでしょ?
彼女は放り出すように言い、彼はそんな彼女にやさしく言葉を返す。
「君の未来だよ」
「……この、嘘つきんぐ」
それを訊くためにわざわざ来たんじゃないの、となじる。
「けして嘘ではないよ。あのとき急に……本当に急に、君が間違いなく夢を語ってくれるという未来が見えたんだ。
その語る顔が、とても美しかったんだ」
彼は彼女のための未来を見ていた。漆黒の空に幾億もあろうかと思われる星々を見上げている。彼はその中でひときわ輝く一つをそっと手に乗せ、眩い光の粒子に包まれる。
かつての手で掴めそうほどの鮮明さと現実味は失せ、もはや抽象的、かつ象徴的にしか分からない。そのピントのぼけた風景は、さながらやわらかで甘い音を奏でる心地よい夢のようだった。
言葉はそれを聞く者の中に入り込んで化学反応を起こし、新しいものを生みだす。
彼女の中で渦巻いていた不満は、彼の言葉で静かに満ち足りてゆく。
「……踊ろう。せっかく逢えたんだもん」
やがて二人はおのずから同じ結論を導き出す。
道を分けて歩いても完全な独りになることはない。いつでも隣にいて、どちらかが立ち止まっても話しかけることができる。そして何度だって歩き出すことができる。
「……あたし、多分…違う、ぜったいあんたの言いたいことの半分も分かってない。
言葉も全然知らないから、言いたいこともいっぱいあるのに、ちっとも言えない。
でも約束する。あたしの歌、絶対届ける。
だから最後に、あたしの本当の名前を呼んで」
あたしの声はしめやかに終わるワルツに消える。酔いが醒めたように人々は緩慢に散ってゆく。
あたしはあいつと国際警察から逃避行する未来を想像する。スターにスキャンダルは付き物、とどこかで聞いたような文句がちらっと浮かぶ。そんな未来は、でも、ありえない。
だってそんな未来をどこかで別のあたし達が歩んでいるから。
ここにいるあたし達はそこを歩まなくていい。
あたしは確信を掴みつつあった。
この闇の街に降る消え入りそうな星の光、そこにあたしとあいつの未来があるんだって。
fin.