「やべ、言い忘れるとこだった。これ、用が出来ちゃって行けなくなっちゃったから、代わりに行ってくれない?」
トウヤが黒地に銀の字が踊る仮面舞踏会の招待状を彼女に渡す。書かれていた場所が場所ゆえか、彼女は唸り、舞踏会の詳細を尋ねるので、いかに豪華かを多少の誇張も含めて説明する。すると感嘆の歓声をあげ、めでたく招待状はトウヤの手から離れていく。
黒い紙を人差し指と中指に挟み、大きく揺らすポニーテールを見送りながらトウヤは思う。
今回はきみに譲ろう。そこで、きみはきみの焦がれて止まない探し物と出逢うことになるだろうから。
“I will give this to you this time. Because you will find the person that you have been longing for there.
......Good luck, 'White' .“
ハイリンクの見えない障壁を越えた。耳鳴りが止んで、空気の密度ががらりと変わる。
ブラックシティ。ホワイトフォレストと平行に位置する闇の街。
大きな一本道を歩んだ先に、招待された屋敷がある。電気とは違うオレンジの灯が屋敷の概観を形作り、その周りを守る鉄格子を茨が囲っている。
豪華な門の上に座っていたヒトモシとランプラーがふわふわと玄関まで誘い、案内された小部屋ではゴチミルが着替えを手伝ってくれる。姿見には美しいドレスを着た、見たことのない女の子が映り込んでいた。
この街へハイリンクを通じて入ると、通る前に持っていた特徴を失くす。この街では、自分は自分であるけれど、自分でない。この街に本当の意味で存在することはできない。
真実は、ゴチミルの大きな青い瞳だけが見通している。
ドレスアップの最後に渡された仮面を付けて、フロアに踏み入れる。耳をつんざく大音量のオーケストラがまず出迎える。宴は既に始まっていた。
高い天井に吊されたシャンデリアの飾りが、タンゴに揺らされてゆらゆらと輝き、その光がテーブルの上の銀食器や食事を照らす。こんな贅の限りが尽くされた部屋は見たことがなかった。
全てのものが珍しく映り、きょろきょろと見回す彼女に、婦人達は彼女に冷笑の視線を投げかける。はっと気づいた彼女はそちらの方をきっと睨みつける。あら怖いこと、と露骨に声が飛ぶ。
フロアの空気は息が詰まりそうなほどに濃密だった。みな、これでもかと着飾って宴に溶け込んでいる。じわじわと、足裏に澱んだ水面に浮かぶ油を見ているような気持ちの悪い震えが背骨を這い登る。
ここは人間の欲の掃き溜まりだ。
私でなくトウヤが来たなら、トウヤはあの人間たちとイカサマに塗れた取引とバトルをして、あんな風に笑ったり罵ったりするのだろうか。
考え出すと本当に気持ち悪くなってしまい、崩れるようにビロードの椅子に座る。どこか違う場所の空気が吸いたくて、身体を抱きすくめて深呼吸をする。
ようやく人心地がつき、気だるくもう一度身体を起こしたその眼前に、並々と水が注がれた銀のゴブレットが差し出されていた。
「どこか、具合でも?」
黒い服に黒い仮面を付けた、男というより青年に近い声だった。年が近そうなことに安心感を得て、絡みつく暗い思考を吹き払うことができた。
「ううん、全然へーき……あ……いいえ、大丈夫です。ありがとうございます」
今日くらいは全身に仮面を纏う、誰でもない女の子、『ホワイト』に徹しようと心に決める。
いくら掃き溜めのようであっても滅多にない仮面舞踏会に相応しい女の子でいたかった。
手から手へゴブレットが受け渡され、水が喉を滑り、潤す。渡した形のまま、中空に留まっている小さな手を見て、ふとそう遠くはない過去のことを思い出した。それを縁にして、あの尊大な態度に似合わない、あるかなきかの爪や、か細い指、はてはその持ち主の整った顔や現実離れした薄緑色の髪を描けるほどだ。あの手にさんざん肩を掴まれたり突き飛ばされたり、ときに心までもぐらぐらと揺さぶられたものだった。
きちんと握手をしたのは、本当に最後の最後のことだった。
感慨に耽りながら自分の手に目を移して、ゴブレットを落としそうになる。
そこにあるのは見慣れた自分の手だった。
……んなことあるわけないでしょ。気分が悪くて、あたしの目がおかしいんだ。
だってもしそれが本当ならこの人は。
指先の脈動が大きくなる。
だってもしそれが本当なら、この人は……。
特徴のない声音で青年は言った。
「ではよろしければ僕と一曲、いかがですか」
いよいよどうしていいか分からなくなった。
ダンスなど生まれてこの方踊ったことすらなかったが、誘われたなら「ええ、喜んで」とその手を握り返す手筈だった。それなのに、緊張で喉の奥で台詞がしゅんと止まってしまった。
もしこの人があいつだったとしたら、あたしに気づいている?
青年は返答を急かさず、頭上すれすれを漂うシャンデラや給仕に忙しいゴチルゼルを目で追っていた。
「……ごめんなさい。私、ダンスはちょっと。バトルはいかが?」
青年は言う。
「申し訳ございません。本日は一体しか連れておりませんし彼はあまりバトルが好きでないようなので残念ですがまたの機会に」
早口だった。
忘れもしない、聞き取れなくて大嫌いだったあの早口。ドレスの裾の下で左手を握りしめる。きっと指は白くなっていることだろう。
「そうしたら、せっかくですし、あちらの……二階のテラス席でお話しましょう」
青年の仮面のラインストーンが、きらり、きらりと反射する。
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