傳ー落
本格的に物書きを始めたのは戦争から戻った後のことだった。
閉鎖的な環境の中で育った彼にとって唯一の楽しみであり、また唯一の師でもあった本で生計を立てられることは贅沢すぎる幸せなはずなのに、どうしても埋まらない虚が幸福な生活に影を落としていた。
作家として世に名前もある。金銭的にも困っていない。作ろうと思えば休む余裕だってある。
それなのに。
あと、何が欲しいの?
「前田さん、だから言ってんでしょ。オレの担当アンタじゃなきゃ勤まらないって」
人妻モノの売れ行きも好調で、別の出版社から出す新作の話もまとまりひと段落ついたところで、猿飛は二日ほど家を空けて小旅行に出かけようと計画していた。
「今回は何処へ行かれるんですか?」
「オレの話、綺麗サッパリ無視だね。どこだっていいでしょ」
そこへ長年担当だった絶唱の前田利家が担当を外れるという話が舞い込んできた。
「なんで変わるの?」
不満たっぷりに問う猿飛に、利家は
「いやぁ、知ってのとおり今年は三年ぶりに新人が入りましてね。一人の担当数が減ることになって」
にこにこ、いつもどおりの笑顔で対応。
「アンタは激務から解放されていいかもしれないけど、オレはどうなるの?なんでオレが切り捨てなわけ?」
「すみません。俺は竹中先生専属になるんです」
「へぇーそう。あの、高尚な竹中センセイの、ね」
頬杖を着いたまま嫌味っぽく零せば、苦笑いひとつ。
「俺だって嫌なんですよ。猿飛先生はわがままだし、気紛れだし、正直めんどくさいところもあるけど、楽しく仕事できましたから。ジャンルが替わってさすがに読みこそしませんが、今でもまつは先生のファンです」
しばらく、沈黙が部屋を満たして、その後。
「ま、会社の決定じゃ仕方ないよね」
ため息混じりに猿飛は笑った。
「意外ですね」
主語のない呟き。
「先生は物事に対してあまり執着するほうではないと思っていました」
利家の言葉に瞬時、目を見開いた猿飛だったが、すぐに先程と同じいつもの掴みどころのない笑顔で首を傾げた。
「んで、オレの担当は誰になるわけ?」
「どっちがいいですか?」
「は?」
「この前ご挨拶にと伺った二人」
「それってオレが決めるの?」
「えぇ。心配ありませんよ。入社三月ですけどふたりとも俺より呑み込み速くて仕事できるし優秀ですから。もう他に担当してる先生もいますしね」
作家側が選んで担当を決めるなんておかしな話だ。
普段どおりを装ってはいるが、自分のわがままに嫌な顔せず長年付き合ってくれた利家が去るということには、さすがの猿飛も寂しさを覚えずにはいられなかった。
次は引継ぎを兼ねて二人で来ますから、とわざわざ仕事帰りに報告に立ち寄った気のいい男は用を済ませると、愛妻のもとへ、暗い夜道の中に消えていった。
冷や酒を、
呷る手が、震えている。
元来、酒に溺れるタチでもないのに今夜は。
いっそ、酒に狂うほうが正気を保てるような、
鬱屈した気分の夜だ。
ゆらゆらゆら
明日の朝まで。
入社して先輩について必死で仕事を覚えて、三月経ったころにはそれぞれ担当を任された。
そこまでは同じ、他の先輩や上司も言うとおり二人に差なんてなかったはずだったのにどうして。
「先生の指名……」
一体、家康のどこに劣るというのか、喜び顕わにする家康の横で急に不味くなった昼食をとりながら幸村は複雑な思いで利家の話を聞いていた。大体。
「ワシのどこを気に入って下さったのか」
などと、本人が素でぽろっと零すくらい今回の人選は何が基準だったのかわからない。
「真田も担当が増えるからな」
「はい」
仕事でわがままなんて新人が偉そうに言えるわけもないが。不服。
どうして。
たった一度しか会っていないのに、家康を指名したのか。
他の誰でもなく猿飛がそうしたことに幸村は深く傷ついた。
早速、引継ぎの打ち合わせを始めた二人。
蚊帳の外な幸村は自分は選んでもらえなかったのだと、悔しさと情けなさに見舞われて、居たたまれなくなり早々に店を出て帰社した。
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