転−落 −酔芙蓉−




体が弱いわけではなかった。
ただ、外部との接触の仕方がわからず、部屋の中で本ばかり読んでいた。感情を上手く言葉にできなかったのは生まれ持った性質と、生まれ育った環境にあったのかもしれない。

父は医者である。優しい人間だが、忙しい仕事一筋であまり関わった記憶はない。
母は無口な彼を気味悪がって部屋に閉じ込め、積極的に会いに来ようとはせず、年の離れた兄たちとも顔を合わせることはほとんどなかった。
15になったとき。自分の行く末をふと考えた。
このまま家にいれば、兄たちがそうしたように当然医者を志すことになる。
だが、彼には自分が医者になることなんて想像もつかなかった。
家を継ぐことはないにしろ、どこかの病院で昼夜問わず働くことなど真っ平だった。それよりも本が書きたかった。自分を育てた無数の本と、次は書く側で向き合いたいと思った。

そこへ。

外から開かれることなどほとんどない部屋の扉が、高い音をたてて開いた。

父だった。

「お前に頼みがある」

この言葉で、彼の人生の行き先は大きく転換した。




蒸し暑い、ある夏の日に父に連れられ見たこともない山道を黙々と進む。
普段、薄暗いあの部屋をでることなどほとんどない彼にとって、明るいばかりか暑すぎる日差しは毒でしかなかった。道中、会話はなかったが、一度だけ父が思い出したように語ったこの頼みごとの、その理由。

二人が向かう真田家の次男は今年で六つになるが、心に病を抱えているという。
どんな病なのか頑なに語らない父に、自分が赴くことに何の関係があるのか問うが、

「私の診断が正しければ、それが善策なんだ」

と、そこで会話は終了してしまった。



心を病んだ子どもと人との接触に難を持つ自分とが関わることに、何が生まれるというのか?まったく理解できなかった。
それよりも早く帰って本の海に潜りたかった。

「よくいらっしゃいました」

出迎えに現れた真田家の当主、昌幸は柔和な笑みを浮かべ親子を迎え入れた。
大人が二言三言言葉を交わすと、昌幸は頭一つ低い彼を見る。

「坊ちゃんもよくいらっしゃいました」

目が合った。が、頷く程度にしか反応を見せない息子。父が促し、そこでやっと彼もいつもどおり表情を変えることはなかったが、ぼそぼそと挨拶を返した。


「三雲佐助です。御世話になります」




それからすぐに父は帰っていった。
残された佐助は彼のためにと用意された離れの部屋で荷物の整理を始める。厳選して持ってきた本を取り出し、机の上に並べながら、蝉の鳴き声の間に、リリンと、鈴の音が混ざるのを聞いた。
生まれて初めて風鈴というものを目にした。

佐助が居間で遅めの昼食を摂っていると扇風機を持って来てくれた昌幸の妻の後から、ひょこっと子どもが二人、顔を出した。
二人ともきゃっきゃとはしゃぎながら佐助の様子を窺っている。
だが、当の佐助はこういうとき、どうしていいのかわからない。
気づかぬ振りして食事を続けるしか対応策が浮かばなかった。
その内にひそひそと内緒話を始めた二人を昌幸が手招きして呼ぶと、にこにこ恥ずかしそうに笑いながら子どもは部屋の中へ入って来た。


「長男の信之と、こっちが次男の幸村。はい、お兄さんにご挨拶」


こんにちは、と声を揃えて言うふたりにさすがの佐助も手を止めて、小さくこんにちはと最低限の音を零した。


「今日から佐助くんは夏の間だけ離れに住むことになったからね」


何が可笑しいのか、子どもらはずっとにこにこしながらじゃれ合っている。
昌幸の話を聞いているのかさえ定かでない。
長男の信之は七つと聞いたが子どもながらに賢そうな顔つきをしているなと、佐助は印象を受けた。問題の次男幸村は見たままのまだまだ子どもで、ただそれだけで、正直心を罹患しているようには見えなかった。

陽射しがいっそう強くなった頃、時々吹き込む涼風に救われながら離れで壁に背を預けて本を読んでいると佐助は、縁側から突き刺さるほど真っ直ぐな視線に襲われた。

顔を上げると、次男の幸村がじーっと丸い顔を向けている。
確実に目は合ったが、またまた気づかぬ振りをしていると、ちょっとずつじりじりと近づいて来る気配。
目だけで意識を向けると何で気づいたんだとでも言わんばかりの驚きの表情で、幸村はその場に固まった。


「何してんの?今忙しいからあっちへ行っておいで」


無表情で言うと子どももまた、突っ立ったままで無言を決め込んでいる。


「信之くんはどうしたの?」

「父上の御手伝いに!!」
「君も御手伝いしてく
れば?」

「君ではございませぬ!!某、真田幸村でござる!!」

「ござる?何?武士ごっこ?」

「ごっこではございませぬ!!某は、誠の武士にございまする!!」

「じゃ、お侍さん、あっちで悪者が暴れてるみたいですよ。やっつけてください」

「何!?それは一大事でござる!!行ってきますでござる!!」


上手くあしらわれた幸村は、ちゃんと母屋に見回りへ行き。

「悪者は某が懲らしめて参りましたぞ!!」

一仕事終えて報告に戻ったが、お疲れさん、と顔も上げずに佐助が答えて武士ごっこはお開きとなってしまった。

それっきり構ってくれなくなったので離れから消えていった幸村。
諦めたか、と内心佐助が安心していると、数分もしないうちにまた幸村は離れに姿を見せた。
何だよ、と悪態をつきつつ無視を決め込んでいると、幸村は部屋の中へ入ってきて、佐助の目の前に正座すると小さな体に対して少し大きめな絵本をひろげ、

「おぉーきーなーりーんごぉーをっ……」

爆音で読み始めた。
つかえつかえで、間違いだらけ。
それに、ちとさの判別ができていないようである。
無視無視と自らを宥めながら、本を読み続けていたが……佐助、もう限界。


「ちょーもう!!貸して!!ここは、さいちなねこじゃなくて、ちいさなねこ!!!」


いきなり絵本を奪われ、怒鳴られた幸村。はじめはきょとんとしていたが、構ってもらえたのが嬉しいのか、にぱっと満面の笑みを零すと壁際の方へ寄ってきて、佐助の両足の間に座りこんだ。今度は佐助がきょとんとする番である。

驚愕する佐助を振り返り見上げると、子どもは続きを読めとせがんできた。
何でオレが!!と言おうとしたが、にこにこご機嫌な笑みで自分を見つめる幸村を見ていたら、何だかもう全部どうでもよくなった。
はぁっとため息ひとつ、零すと佐助は、ご要望に答えて幸村のために朗々と絵本を読み聞かせた。

いつしかふたり、壁にもたれて眠っていた。



夏の終わりが近づく頃には、佐助は別人に成り代わっていた。
15年、流れる四季も気にとめず、ひたすら文字ばかり追っていたのに、ここ数日、本を開いた記憶はなく、かわりに、よく笑っていた。

数本の線が交差して、繋がって、意味を持ち、知らない世界を案内してくれた。
だが今、知らない世界を見せてくれるのは本ではなく、この小さな子ども。
朝早くから日が沈むまで幸村は佐助にべったりでよく懐いた。

兄の信之も共に遊ぶが、風呂も寝るときでさえ離れようとしないのは幸村だけで、山も川も知り尽くした子どもは、佐助に初めてをたくさん教えてくれた。
蝉が叫ぶ木々の間。先を行く幸村は突如足を止め振り返る。
そして佐助の足元に寄ると、似合わぬ険しい顔つきで唇を尖らせた。


「佐助はいつ帰るの?」
「え?あぁ、来週かな。8月終わったら学校始まるからね」


目線を合わせて伝えれば、少しの沈黙の後、幸村はいきなりぎゅむと佐助にしがみ付いた。


「ダメだ!!帰ってはダメだ!!お前も父上の子になれ!!」
「何々、どうしたの?」


つむじが巻く、汗ばんだ頭を撫でてやる。


あぁ、


「淋しいの?」
「ばか」


その答えに佐助は込み上げる笑いを堪える。


「ばかって何よ?ばかって」

そのうちにうーとか呻り声が聞こえて、佐助は鼻を啜る子どもが泣くのを我慢していることを知る。むいっと無理矢理顔を上げさせれば、予想通りのうるうるおめめ。笑いながら両手でその顔を遊んだ。

誰かに必要だと、縋られるのは初めてだなと、思った。



その日から幸村の元気があからさまに無くなってしまった。
外に遊びに行こうといつもどおり誘うのだが、イヤイヤと首を振り佐助にしがみ付いたまま動かない。
信之が助け舟をだし、連れ出そうと一緒に様々な文句で誘惑するがまったく良い返事は得られず。仕方がないので腰に幸村をくっつけたまま久しぶりに離れで本を読むことにした。


「ほら、本読んであげるからもっておいで」


そう言っても佐助から一瞬でも離れることが嫌な幸村は、またまた首を振って拒否。
困った佐助。このまま何もしないのも退屈なので、どうしたものかと巡らせて思いついた、名案が。

「じゃさ、一緒に絵本つくろう」

何?みたいな顔した幸村は興味を誘われたのか起き上がって佐助の顔を覗き込む。


「登場人物は…んー…キツネと……」
「とら!!」

「虎ね」


やっと幸村がいつもみたく笑って、一安心した佐助。

誰かのことを気にかけて、誰かのために、何とかしようと思うようになれたのはここへ来て、幸村に出会ってからのことだった。

全幅の信頼を寄せ、自分を求め、必要とし、それでいて、小さな幸福を与えてくれる。愛らしく、愛おしい。その存在を守ってやりたい。大事にしてやりたい。愛してやりたい。そう思う心は、幸村が教えてくれた。

心の病気を負うという子どもがくれたのは、紛う方なく、心だった。




訪れた終わりの日。
佐助はふたりで描き上げた絵本を綴じて幸村に贈った。
その間もずっと幸村はびーびー泣いて、佐助から離れようとはせず。
彼を迎えに来た佐助の父の姿を見るや否や半狂乱で喚き散らして、帰るなと一層、縋る。
見かねた昌幸が幸村を抱き上げ引き剥がすと、さすがに受け入れたのか、しゃくりあげながらも大人しくなった。

「また来るよ。約束だよ」

そう穏やかな声音で諭す佐助の姿を見て驚く父に、昌幸はふと笑い、小さく頷いた。

短い夏が静かに去っていった。



その翌年も、夏の間、佐助は真田家を訪れた。そして夏が終わればまた、いつもどおりの生活に戻った。
戻った後も以前に比べて、あの薄暗い本の海に潜る時間は減り、変わりに日の下を歩いた。
父はもちろん、気味悪がっていた母でさえ彼の変貌を喜び、会話も増えた。


ただ。幸村の病について父は、頑なに語ろうとはしなかった。



そして、あの事件が起きた、三年目の夏。






 

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