残酷なこの世の中
俺の家に大学生の家庭教師がやってきた。俺の家庭教師じゃなくて、小学生の弟のだけど。
「何年生?高校生?」
「あ、高校2年です」
「一番楽しい時期だね」
知的そうな人だった。実際そうで中学生の妹もたまに俺の勉強も見てくれていた。
いつしか、俺の中で彼女は家庭教師以上の存在になっていた。
「先生!宿題終わったからあそぼ!」
「はいはい」
部活が終わって帰ってきたら、弟に手を引かれながら玄関へ向かっている先生。彼女は困った顔をしながらも弟の手を握っている。
「あ、俊介くん。おかえりー」
「兄ちゃんおかえり」
「ただいま」
「部活終ったの?」
玄関で靴を脱ぐ俺と靴を履く弟と先生。俺は先生の質問に無言でうなづいた。
「そういえば、何の部活?」
「あ、バスケです」
「え!バスケやってるんだ!すごーい!」
何気なく答えただけなのに。いつも冷静な彼女は明るい声で俺の質問に反応した。
キラキラした目。嬉しそうな。
「やってたんですか?」
「あ、ううん。全然」
彼女がやってないんだとしたら。誰かがやっているのだろう。
それが誰かなんて、考えようとはしなかった。…考えたくはなかった。
「先生、バスケしよ!」
いつも通りだった。弟が先生を遊びに誘う。この日違ったのは、弟がバスケットボールを持っている事だった。
先生はそのボールを見つめる。その目は深い闇に包まれたように黒く。
「…いいよ」
若干の掠れ声で弟のわがままに応答した。
「兄ちゃんもやろ!」
「あ、うん」
無意識に弟に答える俺。先生の目はボールから離れない。
外に出た俺たちはバスケをした。といっても、ドリブルをするだけだけど。先生は普通に楽しそうで。
何を心配してたんだ、俺は。と、
「あ、」
弟に渡されたボールは弟の頭の上を通り抜けた。ボールはテンテンテン、と道路に転がる。
俺はそのボールを取りに行こうと駆け出した途端、
「やめて!」
高い女の人の声。その方を向けば先生の青白い顔が目に入った。
「ダメ、ボール追いかけたらダメ。お願い、ダメ…」
そのまま身体が崩れ落ちる。
「先生!?」
俺と弟はそちらへ駆け寄る。
先生は息切れをしていて目からは涙が流れていた。
「やめて。いや、こうた。こうた。居なくならないで、こうた」
『こうた』
先生はずっとその名前を呼び続けていた。
後から聞いた話に寄ると、その『こうた』は公園で子供たちとバスケをしていて、そのボールが道路に転がり、それを取ろうとした時車に引かれて亡くなったらしい。
そしてその『こうた』は先生の彼氏だった。
「ありきたりでしょ?本当に、呆気なかった」
「俊介くん、私なんてやめた方がいい。こんな未練タラタラで見苦しい私なんてやめた方がいい」
俺の気持ちは気づかれていた。先生は悲しそうに笑っていた。その手は震えている。
年上なのに、俺は年下なのに。守ってやりたい、そう切実に思った。
「先生、俺じゃダメですか。先生の事、絶対幸せにするし、守りたい」
そう純粋に感じた。だからそう言った。だけど、
「ごめんね。私もう、こうたしかそう思えない」
涙を流す先生を見て分かった。
俺は自分に陶酔してただけだ、と。守ってやりたい、なんて自分が思うだけでは成り立たないと。
後にも先にも先生にはその人しかいないってこと。
俺はまだ若すぎるってこと。
この世はみんながみんな報われるわけではない残酷な世界だということ。
「先生。ーーーーー死にたいですか?」
それでも俺は彼女の中に自分を切り刻みたかった。