▼大海を漂泊する浮舟
 深夜、まことは廊下をひたひたと歩いていました。先ほどの件でいろいろ考えてしまい眠りにつけなかったのです。
 あれから食事の片付けや風呂の用意をしてハイバラを呼びに行った際にも彼とは二三話しましたし(彼は生来とても寡黙な質だったので、二三話しただけでもかなり話した方だと言えました)、気になっているだろう道場のことも報告できることは全てしました。その中で彼はやはりどこかほっとしたようであったので、道場のことを自分の中から切り離したわけではないのはまことの中で確信に至りました。その上で、父に合わせる顔がないとのあの発言です。彼の中で、何かが強い楔になっているのでしょう。
 彼と話をしなければ。まことはそう思いました。布団や枕が合わないか見に来たと言って部屋を覗き、寝ていればそのまま帰ってくればよし、起きているようであればしめたものです。そのまま彼を説得するのです。
 だって、間違っています。あれ程に道場のことに心を裂き身を犠牲にした彼が、父に合す顔がないなどと、そこまで自分の身を苦しめるなど、間違っているのです。彼と話をしなければ。
「…ハイバラ殿、夜分に失礼します。枕のお加減は如何でしょう」
 返事はありませんでした。
しかし、対彼に限っては返事がないことは意識のないことの証明にはなりません。寝間着になった自分の恰好が一瞬だけちらりと気になりましたが、しかし今はそれ以上に目の前のことが重要でした。まことはごくりと息を飲み込むと、思い切ってふすまを開きました。

 そこで見えた光景、その余りにも異常な様子にまことは呆けていました。
 寝ているだろうなと思っていたのです。もしくは書き取りか、もしくは刀の手入れか、瞑想か、トレーニングか、そのどれかだろうと。
 彼は眠っていました。
 彼は眠っていました。いつもは冷静に辺りを見ている目に痛いほどにしわを寄せ、開かれることの少ない口元は唸りをかみ殺さんとばかりに食いしばり、敷いてある布団には座るだけ、壁に寄りかかって眠っていました。
 どんな深い傷を負ったときも冷静さを崩さない彼の、このような痛みを露わにした表情を、 彼女は初めて目にしました。
「は…はい、ばら……殿……」
 手に持っていた提灯を取り落しかけ、その一大事にはっと意識を取り戻します。ゆらめいた提灯の橙色の明かりがてらりと彼の肌を浮き上がらせ、じっとりと汗をかいているのが遠目でも手に取るようにわかりました。
“ハイバラのことをよろしくね”
 そして同時に、キャプテンのその言葉の意味するところを全く理解していなかったのだと強い悔恨にかられました。彼はこのことを言っていたのでしょう――旅の間、こうしてハイバラが苦しみ続けていたことを示していたのでしょう。
「ハイバラ…殿…」
 何が彼をこんなにも苦しめているのか。自問しかけたまことは、彼の手元を見てすべて納得しました。彼の武骨な右手は懐を強く握りしめており、
「……ハイバラ殿…!」
 それは忘れもしない、一年前のあの事件のとき、まことが手渡したものが、「剣士としての恥」が入っていた場所に間違いありませんでした。何が彼を苦しめているのかに至ったまことは、その正体が自分であったことに強く焼き焦がれるような衝動に駆られます。よろよろと近づくと、泣きそうな顔のまま懐を掴んでいる右手に縋り付きました。
「御免なさい………!」


 目を閉じれば浮かぶのは、いつでもあの戦いのことです。ショーグンを人質に取り、国を傾むけんとする男、その姿を前にハイバラは刀を振るっていました。夢だとは分かっていました、なにせ毎晩とは言わずとも多く自分を苛む夢なのですから。
 踊るようにたなびく相手の黒髪、弾く金属音、初めて見る武器、初めての苦境。懐に感じる重みを自覚して、ああ、この先は分かっています。とどめを刺されかけた自分がそこに手を伸ばし、彼へと致命的な弾を打ち込むのです。
 あれから長い間、ハイバラは苦悩し続けました。他にかつ方法はなかったのか、三節棍を取り出される前に勝つことは出来なかったのか、――武士の誇りのまま、あそこで負けるべきではなかったのか。生き残ったことで、師匠の看板を汚してしまったのではないかと考え、生きて顔を出せると到底思えないほどでもありました。
 心中の思いに呼応するかのように、目の前の男が口を開きます。「あら、それで私を撃つのかしら?」
「いいわよ、ほら。戦いはなんでもありが基本だもの――やればいいわ」
 そう手を開いてすらみせるのでした。
 ハイバラはこれが自分の弱さを許せない心が見せる悪夢だと自覚していました。彼がこんなことをするのも、彼がそう望んだのだと、そう思うことで楽になりたいからだと思い、楽になりたいのであろう自分を一層責めたてました。
 そしていつもの通り、懐へ手を伸ばしたその時です。
 はしりと、その手を掴む白い掌がありました。驚き下を見ると、凛とこちらを見つめる瞳と目が合います。今も敬しやまない、彼の師匠の娘でした。
 彼女は何も言わずに自分のことを見つめています。そこに咎める色はなく、ただすがるような…そこまで考えて、ハイバラはこの表情が戦いの前に懐の重みを与えたときの表情だと気が付きました。
「ホンフー。」
「なあに、お侍さん?」
 待っていたとばかりに弾んだ声で答える男に、粛々とハイバラは言います。
「オレは、この銃でお前を殺す。何度でも、この銃でお前を殺し、帰ることを選ぶだろう」
「はあ?なあに今更。貴方って本当に馬鹿ね、好きにすればいいじゃないの」
「……そうだな。確かに、オレは馬鹿だった。」
 銃声が響きました。

「………」
 朝、ハイバラが鳥の声を聴きながら目を覚ますと、自らの手を固く握りしめたまま眠っているまことの姿が見えました。
 起きている時こそその凛とした姿が強調されているものの、眠っている姿は年相応にあどけないものでした。おそらく一晩中傍に居てくれたのでしょう。握りしめた手は真っ白に染まっており、まるで祈るようにそこに額をつけています。その時、ハイバラの胸を深く揺り動かす感動がそこにありました。
 この顔を、守りたいと思ったのです。
 自分の出来ることで、傍にいられなくても良かった、とにかく健在で居てほしかった。サムライになりたいというのは多少残った未練のようなものでした。もしも自分がそうであったのなら誰にも不満を言わせなかったのではと、まことに身分違いの縁談を強要させるようなことがなかったのではと思わなかったとは言えません。
 守れて良かったと、生きて帰った理由はここにあるのだと至った時、気が付けばその体を胸にかき抱いていました。その腕の強さに、眠っていたまことが身じろぎをします。
「……ハイバラどの…?は、ハイバラ殿!これは一体、」
「…あれから。」
「、…はい」
「あれから、初めて」
「……」
 目が覚め抱きすくめられていることに気が付いたまことは酷く狼狽しましたが、抱きしめている本人であるハイバラが余りにも真剣な様子であったことに気が付くと、ゆるゆるとその背中に手を回し、父親の背中を撫でたときのように優しく力を込めます。いつでも、低く底に自信が流れている彼の声を聞き慣れていたまことには、押し殺したような枯れた声がなんだか新鮮で、おかしな話かもしれませんがこれがいとおしいということなのかもしれませんでした。
 道場にいた頃も含めてはじめて垣間見た彼の余裕のない姿に、言葉には出せない胸に迫るものを感じて何も言えなかったとも言えます。そして暫くの沈黙の後に、ハイバラが自分を許す言葉を吐き出しました。

「はじめて、帰ってきて良かったのだと、」

「……。」

 ハイバラは黙って腕に力を込めました。
 そのままぐっとまことの肩に顔を押し付けて、それからはもう二人の間に言葉はありませんでした。一つ後記するなら、その武骨さに似合わずハイバラの手はとても優しくまことに触れました。まことの側にこんな明るいうちにというためらいが無いわけでもありませんでしたが、しかしそこはずいぶん前から待たされていただけの事はあります。色々な意味で覚悟が出来ていないのはハイバラの側だけだったのです。



 その日の昼、ハイバラが苦い顔で「余計に会わせる顔が無くなった」といいだして、まことが照れたような顔で吹き出したのは、また別の話。
 女性の強さには結局男はかなわないのだというのは、いつだって世界の理なのでした。




―――――――――――
とりあえず完走!!!
まだ補完したいところもあるけどそれは印刷用になるのかなとかなんとか

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