▼ゆらゆらなみま

 まだ、まことの道場に大人の門下生も大勢通い活気のあったころの話です。
 いいえ考えてみればまことの道場というのはおかしいかもしれません。正式に言うならばその道場はまことのものではなくまことの父上のものでしたから。まことは道場の師範代である父親に育てられた一人娘でした。今日も師弟の一人としてその身を心を鍛錬する中で子供たちへと基本を指導しています。
 いつもと変わらない日常。ここ最近、師範代であるまことの父親は幼い子供の目にすら隠しきれない程に衰弱していて、直に誰かに代替わりをするべきだというのは誰から見ても明らかでした。道場の次期当主の指名が近づいているのです。本来ならば嫡子であるまことが道場を継ぐことになるのですが、しかしまことは強く凛々しくも同時に美しく可憐、花も恥じらうと称される年頃の乙女でもあります。剣術小町として町に名前を馳せてこそいましたが、あくまで「女として」名を立てているに過ぎません。稽古場の中、教養をもち腕っ節に自信のある男たちを纏めるためには男女の差も年齢のそれも越えて誰よりも強いことが必要とされていました。今の道場を継ぐのに、まことでは役不足だったのです。残酷なことですが、まこと程の力量になれば自然自分の器というのは痛いほどにわかるというものだったので、父上のその判断にまことが意を唱えることはありませんでした。
 門下生たちは道場を継ぐのは誰になるのかという話題で密かに色めきましたが、しかし微かに心当たりはあるのでしょう。表立った不安というのはそこになく、代わりに押し殺した…いえ、殺しきれていない生生しさを残す不満な視線がありました。そんな、穏やかさとは少し離れた、しかしおよそいつもと変わらない日々。

「ああ………まこと殿は、今日も相変わらずお美しい」

 そしてこれもまた、いつも通りのこと。
「まさしく。あの絹のように流れる髪もさることながら、なによりあの眼差し。かように強さと儚さを併せ持つ眼があるものかと、初めは見詰められる度に体が戦慄いたものよ」
「厭々、まこと殿の美しさは、外見はもとよりその内面だろう。」
 決められた課題を早々に切り上げ呼吸を整えつ、子供へ丁寧に指導するまことを遠い所より伺う数人の男がいました。彼らも大人の門下生の一人らしいのですが、どうやら身なりからしてそれなりの身分のもののようです。
 まことは道場において炊事のものを除けば唯一の女、故にこのように男たちの話題の的となることは日常茶飯事でした。勿論そのことをまことは知りません。男たち、とくにこのようなところに来ているような男はその目的に精神の修養をも掲げているものがほとんどであったので、その自尊心の傷付くようなへまをするはずがないのです。
「応! あれだけ美しければ数多の誘いあろうもの、それでも気取ったところ一つなくあそこまで心清廉に生きられるものなのか…おい、ハイバラ!お前も少しは休んで話に乗ったらどうだ!」
 数人のうち、一番幅の聞いているらしい男が一つの背中に声をかけました。周囲の取り巻きとおぼしき男たちが、ほんの少し、微かにですが笑いを含みます。
 「………。」
 幾分か離れたところから声をかけられたその男、名前はハイバラと言うようです。色のかすれ裾のすり切れた着物、余りいい身なりをしているとは言えない彼はしかしこの道場においては一番の強さの持ち主でありました。ハイバラは声に気が付くと振り返ります。そのまま構えを崩し、話に耳を傾ける姿勢になりました。
「…なんだ」
「いや、なあに。ちょっとした雑談よ。まこと殿に対しては、例え休憩時間であろうと一人素振りをしているお前のような朴念仁といえ二三思う事もないことはなかろうと思ってな」
「………。」
「ん?ほら、言ってみんか」
「…師匠の一人娘。それだけのお方だ」
 その取り付く島もない答えに、取り巻きらしい男がすこし食いさがりかけましたが、初めにハイバラに声をかけた男がそれを手で静止します。
「ほう。やはり、ハイバラ殿は武道こそ秀でておられようが生まれが生まれ。美しいものを解すような心、持ち合わせているはずもなかったな」
「……。」
 誰がどう聞いても、それは侮辱の言葉でした。
殴りかかられても可笑しくない、そんな言葉にもハイバラは相変わらずすこし離れたところで構えを解いて立っています。ただ、先ほどの言葉を聞き、何事か考え込んでいるようではありました。
 やがてハイバラはついと視線を滑らせると下ろした竹刀を再び構えます。その寡黙な顔は相変わらず動きません。素振りを続ける彼の後ろで、会話はまだ続きました。
「ハイバラ殿は確かに腕こそ立つものの、しかし如何せん生まれの低さと教養がな」
「家柄から考えても、師範として他人に教える立場にあるものではあるまいよ。考えても見よ、だれが農民なぞに首を垂れるをよしとする」
「なにより、ハイバラではまこと殿と釣り合うまい」
「ハハハハハハ!」
 そしてこれもまた、日常の一つ。
 


「………。」
「父上?」
 月明りのよく通る夜、床の間。不意に聞こえた深く大きなため息、まるで藍の染料のようなそれに疑問を感じ、まことは手に持った手拭いをきつく絞りながらその意図を尋ねました。これで父親の体を拭くのです。手つきは流石慣れたもの、ぱたたたと水滴が木桶の中へと沈みます。
「なに。世の中は上手く回らないと…そう、思っただけのことだ」
「?」
「私の決断の遅さが、門下の不安をかき乱してしまっている。あれらも、普段は悪い奴ではないのだ。しかし……身分の差を越えられ、見下されるということに焦りを感じ、結果その浅ましさが軽率な行動に駆り立て…ゴホッ!」
「父上!」
 咳に合わせて揺れる背中を撫で、最近とみに咳き込むことの多くなった父親のその余りにも細い体にまことは目を見開きました。時に厳しく自分を叱りつけたあの大きな体を思い出し動揺したまことは、手拭いを強く握り締めることでそれを隠し、ただ背中を撫でる事しかできない自分に歯噛みします。昼間道場では気丈に振る舞い威厳を保っているものの、明らかに病魔はその体を蝕み続けていました。病魔の進行を抑える方法は分かっていましたが、薬を飲むことは父親本人が頑なに拒否したのです。
「まこと…お前には苦労ばかり、かける…」
「そのようなことを言わないでください!」
「道場のこと、そう、なんとか…私の動けるうちに…」
「父上、もういいです、もういいですから今日はお休みください。ね?」
「―――ハイバラは。」
 子供はいくつになっても親の生きている内は子供というものです。幾ら痩せ枯れようが子にとって父親は父親で、きっぱりとした語調を聞かせられば嫌でも背筋も伸び大人しくなります。まことは咄嗟に背中をさすっていた手を膝の上に置くと正座の形に座りなおしました。
「ハイバラ殿、ですか」
「ああ。ハイバラのことを…どう、思う」
 唐突に飛び出した名前にまことは内心首を傾げながらも、思ったことをさらさらと口に出してゆきます。
「良い方だと思います。」
「何を以てそう思う?」
「練習を見ればわかります。彼は武術というものに対し、その…非常に誠実に取り組んでいますから」
 まことは自分に対する視線こととんと無頓着でしたが、他人の練習の姿勢はよく見ていました。尤も、「他人には誠実であるべき」という心を当たり前のものとして捉えていたので最近の道場に蔓延る薄暗い雰囲気には気が付いてはいない様でしたが。
「それに」
 最後に、躊躇うように、一言。
「それに、あの才。一人の剣士として、そう、嫉妬すら覚えかねないほどに…あれだけの肉体と才能が私にあったならと、何度歯噛みしたことか」
 役不足だという判断には納得していても、自分への歯がゆさというのは簡単に消えるものではありません。しかしその心を身を過ぎた我儘だとでも考えているのでしょう、最後の一言を躊躇い吐き出すときのまことの顔は、自らのその言葉を恥じているようにも見えました。
「…ふむ」
 そしてそのまま、まことの父はまっすぐにまことの目を見つめました。「…なるほど。」

 父の意図していることはまことにはわかりませんでしたが、ただ先の一言によって父親が何か重要なことを腹に決めたのだとはうっすらと感じました。
 はっきりと自覚したわけではありませんが、心の奥底で、生まれてからずっと一緒に過ごしたことで染み付いた観察眼がまことにそのような心地をもたらしたのです。 

 
 結局その時父親が何を考えていたのか、まことがついに知ることないままに、ついにあの日が、日常が大きく変わることになる「その日」がやってきたのです。




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この後時間としては例の事件に続きますが、浮舟ではカットなんれすぅ…
ちょろちょろ続きます。

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