ふらり、目舞う感覚に彼女は手をついた。非常に彼らしい机。質の良い割に無駄な装飾の類の一切ない、非常に彼女の夫たる彼に似つかわしい机だ。

「大丈夫かい。どうやら体調が思わしくないようだけれど」
「え、ええ。大丈夫です」
「ふうん。ま、あまり無理はしないようにね」
「………、…は…」

唖然。
そう、唖然だ。きっとそれが今の状態に一番当て嵌まっている。
再び手元の書類に目を落としている彼の、自分の眩暈を察した目敏さに唖然とした、そうではない。彼は驚くほどに他人の感情あるいはその肉体の機微にとても目敏い。そのことを彼女は既に嫌と言うほど理解していて、だからこそ、この気遣いの言葉にに大きな動揺を感じたといっていい。なにせ今までが今までだ。民と交わり育った彼女の理想主義を知っていながら、少し顔色が悪いだけでも「国の長に立つものとしての自覚が足りないんじゃない」「息巻いてはみたもののやっぱり高貴な出身様じゃここが限界かな」とからかうような気軽さで仕掛けてくる彼はやはり間違いなく嫌な方に茶目っ気があって、もとい底意地が悪い。
その「底意地の悪い」彼が素直に自分のことを気遣うようなことを言ってのけているのだから、やはり自分が驚くのは何もおかしなことじゃないのだ。

何より、ほら、今だって。今だって、「あまり無理はしないようにね」の後に「王妃に倒れられて困るのはこっちの方なんだからさ」と続いてもまったくおかしくないのに。
おかしくないのに、彼は手元の書類に目を落として口を閉ざしたまま。これは非常におかしなことだ。

「…なんだよ、ボクが『愛妻』の体調を気遣うことはそんなにおかしいか?」
「あっ」
「まったく。そんなにじろじろ見られても、別にうれしかないんだけどねえ」

気が付かないとでも?ツンドランド式の紅茶に混ぜられたあの一匙のジャムのようにかすかに織り交ぜられた皮肉に、彼女ははっと我に返る。愛妻…そう。愛妻。紛れもない皮肉だ。
同時に伺うようにこっそりと見ていたことが知られていたと気が付いて恥じ入るように微かに目を伏せた。

この国では、元は海を対して争い合っていた敵国とも言えるグレートクイン王国より彼女が嫁いでからというもの確かに皇帝は以前より民に甘くなったと、春の国の王女がかすかな雪解けをもたらしたとそういう話でしばし盛り上がりを見せた時期があった。
特にされて困る勘違いでも無い、いや寧ろ国益に繋がりさえする情報だということで二人とも特に頓着することは無かったのだが、しかしその話を初めて聞いたときに彼女が思い出した、かつての彼の言葉をもこの思い出は伴い連れる。

− 一応は確認しておくが よもや、愛してもらえるなどとは期待していまいね? −

彼らしい言葉であり、これこそが彼の本質であると彼女は重々承知している。それでいい。彼女は国民を愛していたし、当時の、それもことさらこの国の王族には珍しいことに国民からも思慕されていた。それでいい。それでいいとは思っているが、つまるところ、国民の噂するところ全てが茶番なのだということには変わりない。
茶番にして皮肉。彼が始めに明言したことだ、彼女の聡明さと上部層へのコネを必要としたのだと。しかしそうなると、やはり先程の態度が妙にひっかかる。
いや、しかし或いは、

「…そうね、ごめんなさい。すこし疲れているみたいで…いや、言い訳ね、公務の最中に申し訳ないわ」

しかし或いは、見限られたか。

「…申し訳、ないわ…」
「……まあ、最近は随分立て込んでいたからね。丁度良いことだし、遅すぎたくらいだ。暫く休みをとるといい」
「いえっ、そういう訳には!」
「休みなさい。あのね、ボクだって身重の妻に無理をさせるほど愚かな君主ってワケじゃないんだ。」

「……え?」

「第一、王妃が子供を産むのなんてそれこそ第一のお役目だろう。キミが大事な大事な民のことに執心するのは構わないけれど、肝心なことがおろそかになるようじゃ…」
「あ、の!待って下さい!」
「うん?」
「待って下さい…今、なんて…」

続いてもおかしくない皮肉が飛んでこない。
そもそも彼は必要な実力以上のことは他人には求めないタチだ、故に彼は優秀な人材を周りに置きたがるし、周囲の人間も彼を恐怖政治の主として恐れつつもその元で働けることを誇りに思うのだ。また彼は与えられた仕事に大して誠意を持たない人間を嫌う。聞いた話によると、(彼女はその刑を必ずしも最良のものと割り切ることこそ出来ていないものの)虚偽申告をしするべき仕事をしなかった奸臣をその手で煮え殺しにしたばかりと聞いた。

それほどに働くということに対して厳粛な彼が、何も言及しなかったということ。

「うん?あれ、もしかしてキミ。気が付いてなかったのかな?」
「……は」
「てっきり言い出すことが出来ないでいるだけかと思ってたんだけど。まあどう考えても初めてのことだし、気が付いてなくてもしょうがないか」
「……は…」

彼は非常に目敏い。そして博識でもある。
偉大なる皇帝、この凍える土地を統べる生来のツァーリ。彼は随分と勿体ぶった後で、ついに彼女へと宣託した。




「おめでとう。これでキミが、名実ともにこの国の母だ」



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