名前




もしもあの時、あの飛行機に乗っていなかったらと思うことが無いわけではない。

もしもあの時あの飛行機に乗っていなかったら。一つでも便を変えていたら。そもそも旅行に反対していたら。何か変わっていたのだろうか。大切なものを、手放すことはなかったのだろうか。



見知らぬ土地に、見知らぬ空気に、見知らぬ人、人、人の群れ。
「…ほ、ほあ〜………!」
目に見える全てなにもかもが真新しく、それがかえって何もかもを鈍く見せてるような、そんな感覚にに私はただ感嘆の息を漏らした。ほぇー…。脳が処理落ちしてるとでも言えばいいのかな?保健室の桧垣先生辺りに聞けばわたしにも分かりやすく説明してくれたりするのかもしれないけど、残念なことに今私が簡単に話しかけられる位置に彼はいない。何故ならここは、親切高校と遠く離れた、日本からすらも遠く離れた土地だから。
そう!あの親切高校と!海を遠く隔てた!異国の地!
あの超閉鎖的な空間からこれだけの休暇をむしり取るために私がどれほどの努力をしたか、クラスメイトで知らない人はいないだろう。そのくらい私は頑張った!ボランティアで地道にペラを集め、成績優秀者の付与ペラの為に勉強に精を出し、部活でも県大会出場ぐらいまではなんとか頑張った。そうしてこの度めでたく家族旅行の日付に合わせてあの狭い空間から脱出し必要な道具もろもろを集めることに成功したのだ。その時の苦労を思い出し今一度歓喜に打ち震えていると、見知らぬ世界の中で唯一肌になじんだ笑い声が私の背中に投げかけられる。私のお父さんとお母さんだ。
「はは、なんだ随分と浮ついているじゃないか。なまえはこの国に来るのは初めてだったっけか」
「そりゃあ、この子ってばめったに家に帰ってこれないんだもの。私達と違っておのぼりさんなのも当たり前よ」
「ふたりはもう何回か来てるんだっけ?」
「ああ。少しだけ治安は悪いけど物価は安いし食べ物は美味しいし、当たり前のことを気を付けていれば普通にいいところだよ。英語も通じるしな」
にこりと笑い顔を見せたところで、お父さんは腕時計を見た。「…うん、乗り継ぎの飛行機まではあと少し時間があるな。少し見て回ろうか」
お母さんがすぐに明るく同意し、私だって勿論異存はなかった。自分の腕時計を確認すると確かに次の搭乗時刻までは二時間近くの余裕がある。なんでも余裕を持って行動したがるお父さんが寄り道を切り出すわけだった。
「どこから回る?無難に食べ物から?」
「端から全部見ていく時間は無いだろうから、順路に沿って歩きながら気になった店に入る形になるだろうね。なまえも気になるものがあるなら言うんだよ…っと」
お父さんがお母さんの手を引いて、私のことを軽く押した。疑問符を浮かべる私の前に人一人分のスペースが開いて、
「どうもすみません。ありがとうございます」
恐縮そうに通った人影を見て納得した。そうか人が通ろうとしていたのか。こちらこそごめんなさいの意味を込めてぺこりと頭を下げると、人の良さそうな笑みとともに手を一つ上げてそのまま人ごみに紛れて見えなくなる。
「…あ。今の人、日本語喋ってたね」
「確か結構有名な方よお。政治家の方よね?娘さんがなまえと同じ高校に通っていたらしいから、応援しちゃうのよね。確か名前は、神条…」
「神条?へえ、前の生徒会長の名前だよ。よくある苗字じゃないし、そっかあ紫杏先輩のお父さんか」
いろんな意味で目立ってたよなあ。きりっとした顔立ちにポニーテール、監督生の白い学生服。特に仲良くしていたわけじゃないけど、うちの学校で今の生徒で知らない子なんて新入生ぐらいしかいないんじゃないかな。生徒からは不満ばかり漏らされてたけど、あの、何だろう…高潔さ、っていうのかな?彼女から出ている雰囲気は、私は嫌いじゃなかったんだ。話言葉や立場もあって結構お堅いイメージがあったけど、なんだか妙に納得だなあ。
「しかしSSの一人もつけず、こんなところで会うとなはなあ。こんな妙な縁もあるものだから、旅はいいものだ」
お父さんの言葉に、今回も異論はない。
ああ、これからどんなことが起こるんだろう!幸先のいい出だしに嬉しくなった私は、これから過ごす異国での時間を思い鼓動を早まらせた。


「おいおい、こんな最初から荷物増やしていってどうするつもりなんだ」
「ロッカーあるんだしいいじゃない。ね、なまえ」
空を飛ぶ飛行機の中、拗ねたような口調でお母さんがこちらを振り返った。その隣にはお父さんが座っている。どちらの顔も見れる位置で、どちらの意見ももっともなものだったために私は言葉を濁して髪をかき流した。私の癖。滑らかな髪が肌を統べる感触が心地よく、困った時には逃げるようについ触れてしまうんだ。
「おや、なまえ。それは?」
それを切っ掛けに気が付いたのだろう。お父さんが私の髪を指さし言った。
「もうパパったら気が付くの遅いんだから。かわいいでしょ。似合うでしょ。私が見繕ったのよ」
お母さんが自慢げに胸を張るのは、私の頭を飾る一つの飾りだ。ヘアゴムと一体になったそれは白い鈴蘭を意匠にしたもので、シンプルながらもぱっと目を引くなかなかの一品である。私が髪を結ぶことがほとんどないので余計に目に付いたのだろう。お母さんの言葉にお父さんは晴れやかに笑うと、「それじゃあお母さんを責められないわけだ」と頷いた。
「良く似合っているよ。でもなまえ、髪に跡が付くのは嫌なんじゃなかったかい?」
「ま、パパったら自分で言ったこともう覚えてないのね」
「え?」
「あなたが言ったのよ、髪に跡が付くのはもったいないって」
「…そうなのか?もしかして、だから今まで結んでなかったのか」
私はこくりと頷いた。その動作に髪の毛がさらさらと靡く。私のこの髪は割と自慢で、その長所を駄目にしてしまわないよう普段からそれなりに気を遣っている。それを覚えていたからこそさっきのお父さんの台詞なんだろうけど、そもそもの切っ掛けはお父さんとお母さんがよく褒めてくれていたことなんだよね。褒めてくれたから大事にして、もっと良くなってったっていうか…。
だってさ。子供っぽいかもしれないけど、褒めてもらえるのって嬉しいじゃん?
「…でもさ。もっと似合うものがあるなら、それに変えない理由もないでしょ?」
私の一言にお父さんは目じりを下げて微笑んだ。お父さんのこの優しい顔立ちが私は好きなんだ。



着々と時間が過ぎていった。
ところで、電車からの景色を楽しめるタイプと楽しめないタイプっているよね。ちなみに私は後者。どうしてもね、退屈になっちゃってね。暇つぶしがないとやってらんない気分になっちゃうの。
そんなわけで、最初は物珍しかった窓からの景色にもそろそろ飽きてきたわけだ。そりゃあね、確かに結構きれいなわけよ。でも今は雲の上で切れ目がないから雲以外何も見えないし、正直変わり映えしないんだよね。いろんなモザイク見てみてもモザイクはみんな似またような感じになるでしょ。あんな感じ。でもでも、本とか読んで酔ったらもっとやだしなあ…そんなふうに思っていたころに、隣の隣の席のお父さんが不意に呟いた。
「…おかしいな」
え?と問いただす間もなく、お父さんは寝こけているお母さんの足元のカバンをひったくるとそのなかの書類を出して検分し始めた。
「コースが少しずれてないか」
「え、勘違いでしょ。そんなわけないよ」
「…ううん、やっぱりそうかなあ。でもその可能性のが高いよな。いや、俺の勘違いだったらいいんだけ…」

「XXXXXXXXXX!!!」

ぎくり、突然響いた不明瞭な怒鳴り声に思わず二人肩をすくませる。どっと心拍数が一気に跳ね上がった。

「…、… ……」
「XXXXXXX!!xx……XXX!」

耳を澄ませると、どうやらどこかで言い争いが起こっているらしい。言い争いの内容がよくわからずに眉を寄せていると、「アラブ系の言語だ」とお父さんが呟いた。よくそんなの知ってるなあ。
「…喧嘩かな?」
「だろうね。余り狭い場所でパニックになりかねない行動はやめてほしいんだけ、」

ど。
その言葉は次の瞬間に響いた怒号でかき消され聞き取ることは出来なかった。なんだなんだと周囲の人も越えの方向をのぞき込み、入れ替わりに何回か響く乾いた音。パン。パンパン。
お父さんが息を飲んだ眺めて私はぽかんとしている。呆然とした頭で「ドラマで聞く音よりも随分と軽いんだなあ」なんてのほほん感想がまず思


- 15 -


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -