名前




 気が付くと、グラウンドのネット越しに見知らぬ女がこちらを見つめていた。
 と言うと怪奇じみた連想をしがちだが、その実親切高校野球部の面々の反応と言ったら浮足立った明るいもので、厳しい監督の目をかいくぐり練習のまにまにその姿を横目で見ては心そぞろ、かと思えばわかりやすく全力を出してみたりととにかく集中力を欠いている。何のことはない。こんな山奥の高校で若い女など学生かほんのわずかの例外に決まっているし、見知らぬとは言えそもそも自分たちの学校の女子制服を身にまとっているのだから身柄は保障されているようなものだ。自分たちの知らない、野球部に全く関係ない女子が自分たちの練習をアツい眼差しで見つめている。そのことに心奮わせられた彼らは実に熱心にあるいは闇雲にグラウンドを駆け回る。やれあれは俺を見ているに違いないだの、やれ今目が合ったのだの、そんな小声の言い争いも少なくなかった。かくも男子とは単純な生き物である。
 さておき、いくらかいくぐるとは言っても経験豊富な鬼監督がそれに気付かぬわけもなく、彼は今教え子たちの分かりやすい反応に呆れるやら情けないやらで思いため息をついていた。合併による共学化の影響は少なくないだろうとは覚悟していたものの、男子の有り余る青いエネルギーを甘く見積もり過ぎていたらしい。どれ一つ喝を入れてやるかと重い腰を監督があげた瞬間、その人影は体の向きを変え歩き出した。その姿に何か不自然なものを感じ監督が目を凝らすと、その体のラインを白い何かが乱していることに気がつき一人頷いた。ギプスに松葉杖である。どうやら怪我をしているらしい。その体を引きずってここまで来るのだから大したものだ。…とは言え、女子生徒の目的が何であれ、それなりに長い時間視線はそのままにそこに立っているのは確か。目に余るようなら何か対策を練る必要があるかもしれない。こういう時にマネージャーの一人でも居れば、何かしら対策が…と考えて監督は首を横に振った。自分たちのことは自分たちでやらせる。それは男子のみの部活の中で組織を守るために彼が決めた不文律であった。ポッとでのミーハーな女に自分たちの選手を任せるようなことは彼の性格上出来ようもなかったのだ。自分で決めたことを後悔してどうするのだ。
 これでは教え子を笑ってはいられないな。先程の不甲斐ない様子に喝を入れるため、彼は改めて立ち上がった。

 それが春のことだ。
「また来たのか、あいつ」
「今日もでやんすか!…本当でやんす」
 部員達はまたもあの少女がフェンス際に立っているのを目にし、こっそりと言葉を交わしあっていた。今日は監督が居ないのだからこっそりと交わす必要も無いのだが、練習中に堂々と雑談に興じるのも気が引ける。少女の姿を目にするのは二度目どころではない、あれから少女はとつとつと通い詰めここのところはどうもほぼ毎日きているようだった。
「夏の盛りだっていうのに、あの子もよく通うよな」
「目当ては誰でやんすかね?」
「目当て?」
「キャプテンも察しが悪いでやんすね。あれだけ毎日通うということは、何か目的があるに違いないでやんす」
「ああ…」
 小波は苦笑を浮かべて言葉を濁した。男女が互いに距離を計りかねていた春先とは違い、三ヶ月も経てば幾人かの女子生徒が同じように立ち、時折黄色い歓声を上げている。部員たちも数を重ねるうちに慣れていったようで今では空気の一部とみなしているらしいが、やはり時折思い出したように格好つけてみたりと全く興味を失ったわけではないらしい。その中でも少女は最初とほぼ変わらず黙ったままフェンス際に立ち尽くし――否、少女にもあの頃と違うところか一つ。彼女の足からあの無骨なフォルムが失せ、日に焼けた健康的な足を露にしていた。
「怪我、治ったんだな」
小波が呟く。
「え?」
「怪我。ほら、ギプスが外れてる――っと!」
 もう一度彼が言い直しかけたその時、白球が二人の頭上を通り越して行った。
「悪ぃ!キャプテン、」「分かってる!」
 地に着き転がった球は偶然にも例の少女の方向へ向かっている。ボールを拾い上げ送った後、なんとなく少女を振り返るとその目と視線がぶつかった。
 強い、視線だった。あまり好意的な感情を受けないような…厳しい眼差し。一瞬気圧されるように怯んだものの、それを恥じるように軽く礼をして視線を外す。強い日差しが眩しくて顔が険しくなっているだけだ、きっとそうだろう。小波はそう判断すると、練習に戻ろうと走り出した。


- 13 -


「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -