名前




何時になく彼が真っ青な顔をしていることに、およその他人に興味のないなまえが気が付けたのは奇跡というほかない。
彼というのは彼女の隣の席に座る餅田浩紀というクラスメイトのことで、なまえとは入学からこちらちょくちょくと交わりのある、他人よりは少し距離が近いぐらいの間柄であった。その彼の様子がどうもおかしい。なんとなく心に引っ掛かりを覚えていたのは朝からであったが、核心に至ったのはつい先ほどのことであった。革新的な出来事があったわけではない、しかし小さな違和感の積み重ねが「明らかに体調が悪そうだ」という結論に彼女を導いた。
それなりに心砕いて心当たりに思いを馳せてみるも、普通に過ごしていても高々二か月程度でただのクラスメイトの些末な事情について詳しくなれるかというと答えはNOであり、いわんやなまえをやである。答えは見つからなかった。
本人は本人なりに過去よりも対人関係を広めることを目標にしているものの、しかし自分の時間――否、部活のための時間を何よりも大切にする人間である。混黒においてそのようなタイプは珍しくはなかったものの、それにしても彼女のそれは度が過ぎていると言っても可笑しくない。誰が友人の一人もまともに作らずに只管練習に時間を費やすというのだろう。肝心の本人が「仲良くしなきゃなあ」とは思いつつも仲良くするための努力に使える時間を練習に費やしているのだから、友人の一人もできないのは当たり前ではあった。
なにも努力をしていないわけではない。時間やタイミングがあったなら彼女なりにフランクに話しかけるようにはしていたし、聞かれたことにもなるべく答えるようにもしていたが、しかし幼馴染に「三呼吸あれば部活の練習をしている」と言わしめるほどに練習が肌にしみついている彼女であればこそ、努力はしていても友達が出来ないという現状が両立していた。部活に宛てる時間を友人関係の構築にあてることはしない。つまり、ざっくり言ってしまえば「他人に興味がない」。
そんな彼女が彼の不調に気が付いたこと、これはまさに奇跡ともいえるほどにあり得ないことであった。
「…餅田君。」
「………」
返事がない。返事に限らず、思い返してみても朝から一日の終わりまでほとんど口数が無かった。いや、自分と一日会話がないというのは別に珍しいことではないのだ。しかし彼が、あの騒がしい彼が誰とも会話をせずに机に座ったまま一日を過ごすことなんて、それは明らかに普通ではない。
そう、「机に座ったまま」。今日の彼はお昼ご飯も食べていなかった。育ちざかりの男子であり野球に熱心なはずの彼がそれはあまりに普通でない。
明らかに、なにか、おかしい。
「…餅田君!」
「わあっ!な、なんでやんすか!」
「あのね、」
そしてあり得ないことだからこそ、
「……何でもない」
「………一体なんでやんすか」
「…。ごめん」
そしてあり得ないことだからこそ、どうすればいいかわからないというのが情けないことに現状である。

「……。」
小波くん、休んでるみたいだけど、何かあったの?
どうしてもいま、その一言が聞けないのだ。なまえはこっそりと暗い息をついた。

***

「なまえさん、あなた休養日にも自主練と称してここの器具を使っているというのは、本当?」

練習中、コーチに呼び出されたかと思いきやそんな風にきつい口調で問い詰められたものだから、なまえは内心驚いていた。夕方の憂鬱な出来事と言い今日は厄日かなにかに違いない。
確かにその通り、部活では休養日として定められている月曜日にも一人練習していたが、それは怒られるようなことであるのだろうか。自分の体調ぐらい把握している。無理であれば休むし、それが今まで無理でなかっただけの話なのだ。
「はい。」
「…驚いた。まさか、本当だったなんて。カギはどうしたの?かかっていたはずでしょう」
「自主練をしたいと校長に話したら、合鍵を作ってくれました」
「ああ……!」
流石に貰ってしまうのはどうなんだろうと当時思わないことも無かったが、それでもあまりに大喜びで差し出すものだからありがたく貰っていたのだ。しかしそれがいけない事だったのだろうか、そう思ってなまえが目を伏せる。次の瞬間、耳に飛び込んだのは思いもしない言葉だった。
「…そうね、あなた今日はもう休みなさい」
「!」
はじかれたように顔を上げる。
「…。別に疲れていません。大丈夫です」
「そうよね、確かに結果にも全く影響が出ていないもの。凄いと思うわ、でも、ダメ」
「………。」
本当に何でもないのに。なまえは内心激しく落ち込んだが、しかし幼いころより先生には無条件で従うことを命令づけられているために言葉としての反抗はそれ以上表出ることはない。
「練習は大事だけど、私はコーチとして貴方という一人の選手を育てきる責任があるわ。それは貴方をこの高校へ通わせた親御さんへのものでもあるし、あなたの中学までのコーチへのものでもあります。…これまで気が付かなかったのが、失格なぐらいよ」
「それはコーチのせいじゃありません」
「いいえ。分かったら、今日の所は家に帰りなさい。」

「………」

茜差す川沿いの道をとぼとぼと歩きながら、なまえは一人ため息をついた。合わせるように近くをカラスが啼きながら羽ばたいていって、その姿になにか非常に心をかき乱されながら早足ですたすたと足を進める。練習がこんな風にできなくなるのは初めてだった。いっそ河川敷で練習していこうか、そうも思ったけれどいざ実行してみようとすると不思議なぐらいに手足に力が入らない。ボート部だろう人影が遠くで熱の入った声を上げているのすら辛いのだからかなりの重傷なのだろう。
「…少し、風に当たって行こう。…かな」
家にまっすぐに帰って何があったのかを聞かれるのすら、想像するだけで胸がきりきりと傷んだ。理由は分からない。だが、珍しく「何もしない」時間が欲しくなった。
もしもなまえの状況を全て知っている人がいるなら、その人はなまえの今の状況をこう言うに違いない。「自棄になっている」のだと。
「はあ…」
ずるずると草の生えた堤防を下り、川をのぞき込む。澄んでいる割に魚の一匹も見当たらない。じきにそれすら飽きて、帰るかいいやもうしばらくとふらふらと思考を彷徨わせていたその時だ。川をのぞき込んでいたなまえの視界が、さっと人型に陰る。
「…アンタ、こんなところで何やってるでやんす。」
「餅田君」
「練習、あったんじゃないでやんすか」
「…」
練習というワードになぐられたような痛みに目を伏せ、なまえは口を開いた。珍しく、拗ねたような口調であった。
「…そっちも、練習あったんじゃないの」
「オイラはさぼりでやんす」
「そっか。…私も」
「そうでやんすか」
事実とは少々違ったけれど、似たようなものだとなまえは考えた。自分が原因で練習が出来ないのだから同じようなものだ。何がいけなかったのかさっぱりわからないだけ、反省のしようもない。そういえば、最近、今隣にいる彼とのことで似たように悩んだことがあったか。もしかしたら先日の件は虫の知らせだったのかもしれないなあとつらつらとりとめなく考え込んでいる実里の横に、ぼすりと野球バッグが落ちる。程なくしてすとんと餅田がしゃがみ込んで、そのまま呆と川の水面を並んで眺めた。
「なんでこんなことになったのか、全くわからないんでやんす」
「……」
「オイラ…」
「……」
「オイラ…野球、やめ……」
「……」
「……」
暫く沈黙が続いた。もしかしたら隣の彼は泣いているのかもしれない。なまえはそう思ったが、同時に何があったかはわからないが彼は自分のいる前では絶対に泣かないような気もした。根拠のない考えだったが、男の子というものは女子の前では泣かないものだという先入観がなまえの中には強くあったのでその影響があったのかもしれない。だが、それでも隣の顔を見てみようとは思わなかった。
彼の悩んでいることが小波に関係しているのだろうとほとんど直観的に彼女は理解していたが、しかしやはり聞くことは出来なかった。自分が聞くことで相手の何かを深く傷つけてしまうのではと考えるとうかつな慰めも言えずにただ黙り込むことしかできない。
「…オイラ、野球をするものとして、失格でやんす」
「……」
「………」
なまえはその告白をただただ聞いていた。こんなこと、彼が自分に漏らすことなんて普段ならばとてもあり得ない事だろう。
そう、あり得ないことだからこそ、どうしたらいいのかわからないのだ。
「……大変なことが、あったんだね」
だから、精々その一言を言うのが精いっぱいだった。このたった一言でさえ、彼女が目いっぱいに頭を使った結果だった。相手をなるたけ傷つけないように、具体的になにかに触れないように、相手に返答を強要することないように、よく考えた結果自分の頭の中で残ったのがその言葉だけだったのだ。
こんなに人に対する言葉で頭を使ったのは、もしかするとなまえにとって生まれて初めての経験かもしれなかった。同時に、自分が悩んでいたことがとても軽いことのように思えて、彼女の心の負担が和らいだのは言うまでもない。非常に浅はかなことではあるが、こんなに大変な人のまえでは、自分の問題なんてほんの些細なことのように思えたのだ。
「…オイラ、全然、大変なんかじゃないでやんす」
「…」
「本当に大変なのは…」
「……」
「………」
再び沈黙が続いた。
「オイラ、今日はもう変えるでやんす。アンタも長いしないで早く帰るんでやんすよ。」
「…うん。」
彼女もそろそろ帰ろうと考えていたのではあるが、一緒に帰ろうと言い出すつもりにはなれなかった。互いに誰かの側にいたい気分でないのは明らかだったのだ。


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