「先生、今日遅いね」

ぱすぱすとプロテにタンマをはたきつけていた私は、その一言で顔を上げた。体育館の壁時計を見れば八時五十分、三種目めの段違い平行棒の練習もそろそろ終わりに近い時間だ。今まで練習に集中してたから気にしてなかったけれど、言われてみれば確かに遅い。

「どうしたんだろ…実里、なんか知ってる?」
「うーん、わかんないけど…最近また生徒が問題起こしたらしいから、その事でごたごたしてるのかもしれない」

かも。
先生は高校の教師をやりながら、この市の体育館を利用して生徒から集めたわずかなお金で器械体操の講師をしている。わずかなお金と言ってもそれは先生の手元には行かず、例えば私がいま手につけているタンマ、それからテーピング、ガーゼといった消耗品や器具そのものを買うための貯金として全て回される。

「また?まあ確かにあの学校じゃあね。超評判悪いし」
「あはは…」
「幾ら体育館に近いとはいえ、あんな学校に進学しなきゃいけないのかあ…」
「その代わり平日の練習時間は他の高校に入ったときより格段に多く取れるよ」
「そりゃーそうだけどさあ。はあーあ」

教師なのだからお金は取れないのは当たり前と言えば当たり前の話だけれど、平日は五時から十時まで休日は九時から六時まで要するにボランティアで指導してくれてるのだから、考えてみればとてもありがたい話だ。

ちょっとお喋りしすぎちゃったかな。段違いはあと一本通せば今日のノルマは終わりだけど、あと一種目平均台が残ってるし、その後には先生からのチェックが待っている。口を動かす前に体を動かせとは先生の談だ。今日から夏休み、つまり試合期が始まるんだもの。春の演技構成で通しは二三本流せるようになったけど、私はいつも大事な所で失敗しがちだから…少しでも練習を多く積んで、体に成功を染み付かせなければいけない。

「んじゃ、私達上がるから。実里頑張ってね」
「理沙、また明日ね」
「あんま無理しちゃダメだよ」
「私は少しキツい位で丁度いいんだよ。それにどっちにしろ私は先生が来るまで帰れないし」
「あっ…今日、通しのチェックだったっけ。」

通しっていうのは、試合用の演技構成を一から十まで続けてやる練習のこと。一回失敗するとやり直しになる上に、失敗した演技も最後までやらなきゃいけないので心も体も大層疲れる練習なのだ。理沙はちょっと顔をしかめて「お疲れ」と言ってくれたけど、言葉にしてないその真意は「御愁傷サマ」だろう。

続々と選手が体育館から出ていくのを見送って、それに合わせて理沙がジャージを羽織って体育館出口へ、更衣室の方に歩いてったのを見送って、一息。パン!と太股を叩く。
タンマが色濃く残った場所がひりりと痛んで、気合い注入完了だ。

よし!今度こそ本当に練習再開しないとね!
ワイヤーの交差やメインである二本の木棒で直線的なラインを形取る段違い平行棒。
その前に立って、一歩、二歩、ジャンプ!バーを掴んで、け上がり振り上げ倒立。肩を前に出してそのまま後ろにぐるりと…

「――きゃああああああっ!!」

ほんてん倒立と行きたかったのだけれど、突然の悲鳴に縮み上がった体はタイミング通りには開かず勢いのままひたすら後ろ回りを繰り返した。
ひえええぐるんぐるんぐるん……ああ……私はこれだからいつもいつも大事な所で失敗しちゃうんだ…。去年の全中はカメラのシャッターライトで集中が途切れたせいで平均台で落下しちゃったし、今だってこんな、突然の悲鳴なんかで……悲鳴…悲鳴……、

悲鳴?

「えっ?」

「イヤッ、先生やめて!!誰か助けてっ……イヤアアア!離してえっ!」

理沙だ。

入り口を見ればドアはきちんと閉まっていて、ちょっとした声ならこちらまで届かない筈なのに…ちょっ、ちょっと…尋常じゃない様子だけど。先生?

さっきの状態のまま身を預けた段違い平行棒から一先ず降りて、プロテをはめたままレオタードの上にジャージを羽織る。練習しないと、と一瞬だけ迷ったには迷ったけれど、でもやっぱり様子を見に行かないことには気になって練習にならないのがわかりきってるのだもの。

弾むようにフロアータンブリングを横切り、血豆の血が染み付いた平均台をくぐり、助走路を走って一人きりの体育館を走り抜ける。

少しもしないで鉄製の扉の前についた。体育館の出入口だ。私は恐る恐るドアノブに手をかけて、息を殺して外の様子を伺う。かちゃりと微かに音が響いて、その音ひとつにびくびくしながらも扉に体を押し付けて隙間から目を凝らした。

「…………。」

まずはじめに見えたのは、先生の背中だった。入り口のすぐ側に仁王立っていたらしく、こちらには気がついていないみたいだけどその広い背中が邪魔をして廊下を見ることが出来ない。理沙はどうなったんだろう。

先程までとは打って変わった痛いほどの静寂に、ドアノブを掴んだ掌にじとりと汗が滲む。ドッ、ドッ、と脈が強く打って、呼気を潜めるのが少し難しい。どうにか音を立てないようにもう少しだけ扉を開いたその時、「気分はどうだ」という先生の声が聞こえて、危うくノブを手放してしまいそうになる。

「とてもいいです、先生。私、今ならなんでも出来そう」

理沙だ。取り乱してたようなさっきの様子はどこへやら、しかし今でも多少興奮しているらしく声音はちょっとハイな調子だった。

あれ、そういえば私、なんでこんな隠れるような真似をしてるんだろう。今扉を開けて「どうしたんですか」って、そう聞けば良いだけの話なのに。先生はただ酷いことなんてしないんだから、さっき聞こえた理沙の悲鳴だって何か、勘違いとか、そんな理由があったはずで…

だけどそれなのにどうして、今こんなにも何かが怖くてたまらないの。

ドッドッドッドッ……破裂しそうなぐらいに強く早く、まるで床の演技を終わらせたあとみたいな、そんな苦しさに胸が痛い。いたたまれない。

その時、不意に先生が二歩ほど前に出てしゃがみこんだ。
理沙の声のした方だから、手を差しのべてのかも…って、あれ。

「……ハタ?」

頭頂から真っ直ぐに突き抜けた棒、その先にはためく黄色の三角の印。
しゃがみこんだ先生の後ろ姿は、どこからどうみても旗が頭に突き刺さってるように見える。

「ハタって、こんなに素晴らしい事だったんですね。とっても気分が晴れやかで、今まで色々と悩んでたのが馬鹿みたい」
「そうだろう。俺も今日家庭訪問先で生徒の親御さんに刺して頂いてな。子供のことをまるで省みない親だと思っていたら、こんな素晴らしいことを教えてくれたんだ。人はわからんもんだな」
「なんで今までハタを刺さなかったのか不思議なぐらいです。ねえ先生、私、今からみんなを追いかけてみんなにもハタを教えてあげたい」


「…………。」


訳もわからずゾッとした。
何を言ってるんだ、この人たちは。い、いみ…意味、意味が分からない。まったく、分からない。

「いや、きっと皆は家に帰れば親御さんがハタを立ててあげられるはずだ。それより理沙、実里を見なかったか?」
「ああ、さっきまで平行棒の練習をしてたんですけど、時間がたっちゃってるからもう平均台に入ってるかも知れません」
「じゃあ今すぐハタを立てるように言ってやらなきゃな」
「ハタを立てるのは、人として当たり前のことですもの、ねっ!」

「 ―― ―……」


くらりと目眩がして、「しまった」と思ったときにはもう遅かった。
へにゃへにゃとへたりこんでしまった私の目の前で、かちゃり、確かに扉が音を立てる。


「あっ、あ、」

ドッドッドッドッ

心臓が痛い。気持ち悪い。
ぎしりと扉を開いて顔を覗かせた先生たちの異様な程にこやかな姿はどう贔屓目に見ても狂気的にしか見えず、もう笑っちゃうほど間抜けな旗が頭を閃いてる様、そのギャップがもうたまらなく、たまらなく怖いの。
なんだか恐ろしいことが起きているような気がするの。

「実里、駄目じゃないか、練習をサボったら」
「せ…んせ…」

ドッドッドッドッ

気持ち悪い、気持ち悪い、怖い怖い怖い怖い怖い!!

「せんせ…私、嫌です……」
「あ?」
「だって、そんなの立てたら、体操…出来なくなる…でしょ?」

学校のスキー授業は何かがあって靭帯を切ったら大変だから休ませて、修学旅行で三日も練習が出来ないのはいけないからと休ませて、イヤホンすら三半規管に影響がでる可能性があるからと禁止していた先生が、なんで、そんな、頭に、脳ミソだなんてとてもタイセツな所に棒を突き立てるなんて、なんで


「お前は何を言ってるんだ」
「え…?
「ハタに比べれば器械体操なんて、もう、なんだっていいこと。いいからお前もはやくこのハタを刺しなさい」

ドッ、………。

あれだけ荒ぶっていた鼓動が一瞬にして縮み上がる。まるで思いきり殴られた後みたいに頭の奥がじんじんして、言われた言葉を噛み砕くのに時間がかかってしまった。

「ほら、実里、来なさい。なんで逃げるんだ」
「い、いや…」
「実里、ハタを立てるのは、人として当たり前の、素晴らしいことだよ。なんで刺してくれないのっ!」


体操が出来なくなる

頭がおかしくなってしまった二人が一歩二歩と近づいてきて、へたりこんだ私はいよいよ恐慌する。
心臓だけがやけに静かで、耳鳴り響く頭の奥が燃えるように熱い。

「やっ…やだ!やだやだ、誰かっ、」

立ち上がることも出来ずに、へたりこんだまま無様に後ろへとずり下がった私の指先に、こつん。何かが当たった。慌てて掴めばそれは園芸用の霧吹き。
体操では、演技の際滑り止めとして水をよく使う。一種目に一つ二つ装備してあるのが当たり前で、今回は跳馬の助走炉に備え付けの霧吹きだろう。

「ご、ごめんなさい!!」

とにかく何かしないと!
パニックになった私は慌てて吹き出し部分を捻り外して、思いきり先生の顔へと投げつけた。
痛みと水が少しでも時間稼ぎをしてくれたら!自らを奮い立たせて立ち上がり、入り口から少しでも離れようと二人に背を向けた私の耳に、どっ、と何かが倒れ込む物音。

「先生っ!先生っ…実里、先生になんてことをするの!」

ごもっとも!でも、私だってやりたくてやった訳じゃ…もごもご口のなかで言い訳して、ちらりと振り返った先で気を失った先生が見えてちょっとだけビックリする。当たりどころが良かったのかな。

「実里!待てって…いってるでしょお!」

取り合えず、なんとかして外に出なければ!

叫ぶ理沙の声を後ろ手に聞きながら乾いた助走路を全力で走り、フロアを縺れる足で転がるように走り抜け、段違いのすぐ側に置いてある自分の荷物を掴む。
段違い平行棒用の霧吹きが鞄のベルトに引っ掛かって、もう外す手間すらもどかしい!全てをひとまとめに抱えて、非常口の扉を乱暴に開け放った。びゅおお…、生暖かい風が外から流れ込んで、顔へと吹きかかる。

「なんで…なんで私の言うことを、聞いてくれないのよおお!!」
「……。」
「実里!!ハタを刺しなさい!!」
「………。」

しばし躊躇って、しかし一歩踏み出してしまえば以外と簡単な事だったのだと気が付く。
体育館の外へ出るのは、なんだこんなにも容易かったのだ。



夜の街、さざなみのように寄せては返すめちゃくちゃなこの混乱に流され、私はこの日、生まれて初めて練習をサボった。


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