(4主+3主/春コミ無配)





 俺が、宇宙を見つけた話をしよう。

 長い間この町を覆っていた濃霧の元凶を叩いてから年も変わって、早くも数か月経っていた。一週間ほど前には学年末テストがあったり、もうすぐ春休みだったり、なにひとつ変わらない普通の日常がいまのこの町にはある。それがどんなに平穏で、幸せなことか、一年前の俺は知らなかった。あんなことに身を投じたいまなら、それがよくわかる。
 最上級生の門出でもある卒業式だったその日、運動部は式の後片付けをすることになっていて、休日にも関わらず登校を余儀なくされていた。そして、片付けながら思った。来年の今日、旅立っていた卒業生と同じように自分も門出を迎える。そのとき、八十神高校の制服を着たまま迎えることは叶わない。それを寂しいと思うのは仕方がないとしても、みんなと同じ場所にいられないからなにか変わってしまうわけじゃない。みんなで生きて、みんなが卒業出来る。それだけで、充分だ。
 片付けは、本来帰宅部であるはずの陽介も巻き込んだおかげで予定よりも早く片付いた。午前授業の菜々子が帰ってくるまでに昼食を作ってやれるだろう。 その日は、生憎の雨だった。朝から晩まで、終日降り続いた雨。それなりに強い雨足だったが、ときどき勢いを弱めることもあり、そんな良好なタイミングで俺と陽介は帰路についていた。会話の中に時々混じる、ぱたぱたとビニール傘に落ちる雨音を聞くたびに、かつて感じていた焦燥感がぶり返されるような気がして、やはり雨は苦手だなと思う。
「テレビで天気予報チェックしてさ、雨の予報が出ても、もう気張らなくていいんだよな」
 くるくると傘を回しながら、前を向いている陽介はぼそっと言った。彼も俺と同じことを考えていたことが、手に取るようにわかる。彼の考えが筒抜けてしまうくらい、雨のときに考えないわけがないんだ。この場にいないけれど、一緒にテレビの中を駆け抜けた仲間たちもきっと思っている。しかしそれはもう、数か月も前に終わったことで、あのとき一番苦しんでいた菜々子だっていまでは元気に学校へ通っている。普通にしていても許される生活が、ここにはある。
「そうだな」
「……大丈夫、だよな」
「……ああ」
 大丈夫だ、という意味を込めた返答をすると、前方を向いていた陽介がこちらを振り返り、なんでもないようにで笑いかけてきた。それに対して俺も、口角を上げて応えた。一年間かけて築いてきた信頼関係というのは、強固なものであると同時に、一度綻べば修復は難しい。だから陽介は、自分の抱えた疑心が破綻の種にならないように、どんな形でもいいから俺から肯定の意思を確認したかったんだ。そして俺もそれを全部理解したうえで、俺自身もその疑心を隠して望むままの答えを返した。いまこの平穏を壊したくない、その一心。
 わかっていたことだ。雨が降っていたってなにもない、大丈夫だと思う反面で、それは真実の平和であるのか、と。あの日で俺たちはすべてを解決に導けたのか、と。口にしないだけで、みんなが共通して感じている不安。陽介があんなことを訊いてきた真意だって、どこかにまだ釈然としない思いが内に留まっているからだろう。顔は笑っていたとはいえ、「目は口ほどに物を言う」なんてことわざにもあるように瞳のなかは不安の波が揺らめいていた。
 それきりお互い、声を出すことさえ躊躇ってしまって、気付いたら商店街の入り口まで戻ってきていた。これからジュネスのバイトだという陽介と別れたあと、今日が購読している本の発売日だったことを思い出してすぐそこにある四目内堂書店に立ち寄った。入った途端に紙とインクの独特な匂いに出迎えられて、毎月買っているその本を手にレジへ向かう。外の雨を気遣って袋を二重どころか三重にもしてくれた店員とは、この一年ですっかり顔馴染みとなっていた。店を出る直前に「また来てね」笑顔で掛けてもらった言葉にふと、この本屋に足繁く通えるのもあと何回だろうと考える。さっきの陽介にしろ、お店の人にしろ、意味は違えど受け取った笑顔を辛いだなんて思いたくなかったのに。
「……ん?」
 惣菜大学から漂うおかずの匂いに自身の腹を鳴らしながら、辰姫神社の前を通り掛かる。が、視界にちらっと入った珍しいものに、行き過ぎた足を後退させた。参道を目で辿り賽銭箱付近、可愛らしい涎掛けとは裏腹に常に気難しい顔をしているあのキツネが、向拝に降りてきている。近頃は立ち寄っても姿を見せてくれなかったのだが、こんな雨の日にわざわざ降りてくるなんてどんな風の吹き回しか。
 ……それから、キツネの傍らに寄り添う少年を目に入れて、辿っていた目線はそこで止まる。珍しいと感じて興味を惹かれたのは、キツネよりもむしろ少年の方だ。ジュネスがあるとはいえ、田舎であるこの地域だとひとりひとりの名前や顔を覚えることも難しくない。だから余計に、ここら辺では見掛けない顔と馴染みのない制服姿で、彼がこの町の外からやってきた人物だとすぐにわかった。
「こんにちは」
 気付いたら鳥居を潜り、参道を通って少年の前に立ち、自分でも驚くほど気さくな挨拶が口から出ていた。
「……こんにちは」
 数秒の間を経て顔をこちらに向けた彼からも同じ挨拶が返ってきた。遠目からではよくわからなかったが、どうやら同い年くらいの高校生に見える。全身を薄らと雨に濡らしているのか、深く濃い青色をしている毛先からは雫が不規則にぽたぽたと落ちている。そんな髪の奥に右目を隠し、露わになっているホワイトグレーの左目でさえ、なにを考えているのか汲み取れない。猫背気味に座っているから確かなことは言えなかったが、背丈は自分の方が高いかもしれない。そして、少年が身に着けている制服。確かに馴染みはないのだが、どこかで見た覚えはある。断片的で曖昧な記憶に、どこだっけ、と複雑に絡み合った一年間の記憶を整理してみるものの、なかなか思い出せない。ひとりで悶々としている俺を嘲笑うように、隣で落ち着いているキツネが気難しい顔のままふんっと鼻を鳴らした。
「……そのキツネ、あまり人に懐かないんだけどな」
「ここにいたら、この子が降りてきたんだ。だから少しここで雨宿りさせてもらってる」
 彼は「ありがとう」と言うと、キツネの首元をこしょこしょと擽るような手付きで撫でた。まるで犬猫を扱うようなそれに、さぞキツネ様はご立腹だろうと様子を窺えば、満更でもない表情だから驚いた。彼の言葉から察するに、ひとりと一匹の間に面識なんてないようだが、キツネが見知らぬ人間にここまで近い距離を許している姿を見ることはそうそうない。というか、初めて見たかもしれない。テレビの中を共にしてきた俺でさえ一年かけてようやく、といったところであるのに。なぜだろう、少しだけ悔しい。
「この子は君の友達?」
「友達というよりは、仲間というか……そんな関係かな」
「……俺にも、この子みたいな仲間がいるよ。強くて賢くて頼もしくて、それでいて真っ白でモフモフなんだ」
 動物が仲間だなんて割とおかしいことを言っていると思ったのだが彼は至極真面目に話を受け取り、あまつさえ自らにもそんな存在がいると豪語し始めるから、彼には驚かされてばかりである。
 不思議な人だ。たった一言二言しか会話していないのに、ずるずると引き込まれているのがよくわかる。俺が立っている場所は御神前の屋根が届いていない場所で、雨がさんさんと降り注いでいる。対して彼がキツネと寄り添っている場所に雨は一粒も降っていないし、彼自身から落ちる水滴が足元を濡らしているだけ。はっきりと見える境目は、彼と俺を分かつためにある境界線のようだ。一歩踏み出すだけで、そこは容易に超えられるだろう。そうやって頭では考えていても、いつまで経っても下肢は行動に移そうとしなかった。
「いいなぁ」
 突然、少年はそれだけを言った。相変わらずキツネを撫でつついきなり呟かれたので、てっきりキツネに向けた言葉かと思った。
「君は」
 しかしそうではなくて、すっと細められた瞳は俺に向けられた。ということはいまの「いいなぁ」という言葉は、キツネではなく俺に向けられたのだと把握した。とはいえ、さっき初めて会った相手から羨望される覚えはない。いままでの会話を振り返ってみても、心当たりも思いつかない。
「俺はね、君のように……いや、違うかな。『君』になりたかった」
「俺に? ……なんで?」
「君になれたら、全部思い通りになるってずっと思ってた。でも多分……君がいたから、俺は君になれなかった。いまはそれでもいいって思えるようになったからいいけど」
 あまりにも錯綜している会話にうまく歩幅を合わせられているだろうか。こういう対人スキルも一年でかなり培われたと思う。とはいえ、彼は話していることが他の比にならないほど飛躍していて、このままずっと平然としていられる自信がない。だからこそ、彼のような人から濃い羨望を受けるのは、少しだけ気分が良かった。なんでこんなことを思うのか自分でもわからない。彼は俺を知っているような口ぶりだけど、俺は初対面のはずなんだ。いくら記憶を掘り起こそうとしても、覚えがあるのは着ている制服だけ。
(彼の目も、髪も、声も、なにひとつ知らないのに、話せば話すほど取り込まれそうになるこの感じは、なんだ)
「俺は……君を知らない」
「でも俺は、君に何十回も見放されたんだけど」
「……ごめん」
「なんで君が謝るの?」
 彼の言う通りだ。どうして俺が謝らなくてはいけないんだろう。だけど仕方ないんだ、言葉がぽろっと口から出てしまった。それこそ、彼への謝罪はずっと前から定められていたと言われても、なんの違和感もないほどしっくりときた。でも、当の少年は俺の謝罪を受け取るつもりはないらしく「本当に、理不尽だよ」と、今は刑務所入りのあの刑事のようなニュアンスで、諦めたように呟くのだ。
 途端、謝罪ではなく、なにか違う別の意思を彼に伝えてやらなければいけないと思った。このままではきっと、俺たちはずっとわかり合えないまま終わってしまう。おかしいな、わかり合うもなにも、俺は彼を知らないと言ったばかりなのに、彼のなにをわかろうというのか。終わりは、始まりがあってこそ存在するもので、まだ始まってもないことの、なにを終わらせようというのか。腑に落ちないところはいくつもあった。けれど、それよりも。
「なにも知らないけど……これから君を知るために努力することは出来る」
「……」
「それじゃ、駄目なのか」
 ひたすら俺を見つめていた彼の目が少し大きくなって、その奥がきらきらと瞬いた。零れてしまうのではないかと思わず受け止めたくなるそこは、小さな宇宙が詰まっていてもおかしくないほど、綺麗で、神秘的で、激しく心を揺すられた。「駄目じゃ、ないけど」
「なら……」
「その言葉、もっと早く聞けていたら、何回も何回も続けずに済んだのかもしれない」
 薄い下唇と生え揃った細い睫毛がふるふると震えていて、まずいことを言ってしまっただろうか、もしかして泣いてしまうのだろうか、と少しだけ焦った。が、実際に瞳から零れるものはなにもなく、そのうえ「こんなことで泣いたりしない」と言われてしまった。なるべく人の心はあまり読まないでほしい。
 知る努力をすると言った手前、まずは彼の名前を訊いてみた。しかしまずは俺が名乗らないと教える気にならないと言ってきたので、それならばと自分の名前を言えば、ただ一言「いい名前だね」という感想だけで、結局名前を教える気はなかったらしい。名前が駄目なら、年齢はどうだろうか。けれどそれも「途中で数えなくなったから覚えていない」と適当な理由をつけて、結局その問いもかわされてしまった。駄目じゃないと言った彼だが、自分のことはあまり語りたがらないようだった。途中からはもう意地になっていて、探究心の赴くまま質問攻めにしていたが。
「時間切れ」
「えー……」
「同居人がね、早く帰ってこいってうるさいから」
 一緒に住んでいる人がいる。ここでやっと、彼に関する知識がひとつ増えた。それにしても、その同居人とやらはこんな奔放な彼とよく日々を過ごせるものだ。俺なんてこの数十分でずいぶん引っ掻き回されているというのに。そうやって感心していると、緩慢な動きで彼が立ち上がった。最初に目測した通り、立ち上がると俺の目線よりも少し低い位置に頭頂部があった。座っていたときから気になっていた猫背を正せば、本来の身長はもう少しありそうだ。なんて、頭の先から爪先までまじまじと眺めていると、彼の顔がムッと顰められた。やばい、また考えを読まれた。
 それから彼は、俺が瞬きをしたほんの一瞬で、淡いひよこ色が黒で縁取られたマフラーを手の中に納めていた。目の前でマジックを見たときのようなリアクションをする俺を見た彼はくすくすと笑って、まるでなんでもないような顔でそれを首に巻きつけている。彼と接していると、心臓がいくつあっても足りないという言葉を実感する。驚きの連続で、思わず苦笑い。
「そういえばそれ、その本」
「これ?」
「絶版したはずだったんだけど、復刻したんだな。いい作品何枚も載ってるから、バックナンバー探すのにいつも苦労してたんだ」
「知らなかった」
「そっか。……そっか、よかったよ」
「……読むか?」
 この雑誌が絶版していたなんて事実は初耳で、後から調べてみたら本当に休止期間があった。しかし二年ほど前から出版社を変えて再び創刊していたこの雑誌は、アマチュアからプロまで多様な写真が掲載されている。この町に来てすぐ、たまたま目に入った表紙が綺麗で、それから買うようになったのだから、そんな裏事情があったなんて知らないも当然だった。
 この本の愛読者。それだけの情報だったが、またひとつ知っていることが増えた。けれど彼はなぜ、愛読しているにも関わらず復刻したことを知らなかったのだろう。それに、袋を差し出しても彼は首を横に振った。明らかに興味を向けている態度なのに、どうしてと問えば「こっちに気持ち、残したくないから」と言っていた。意味は、そのときも、いまでさえわからないままだが、袋を提げていた手は仕方なく引いて、代わりに差していたビニール傘を彼に向けて突き出した。
「帰るんだろ? これ使って」
「え、でも……」
「俺、ここから家近いんだ。走ればすぐだし、大丈夫」
「……」
「傘は、今度返してくれれば、いいから」
 押し付けるような形でその手に傘の持ち手を握らせた。まだなにかを言いたげな様子だったが、自称我儘だという彼の奔放さに散々付き合ったのだから、最後くらいはこっちの意見だって通させてもらわなければ。それに、傘を託しておけば、返すという次の機会にまた会える口実にもなる。
 雑誌を鞄の中にしまって、せめてもの雨除けとして頭の上に鞄を乗せる。一時期よりは弱まってきたとはいえ、依然として止む気配はなさそうだ。防水加工が施されたブレザーの表面を伝う雫も、量が過ぎれば中まで浸透してきてしまいそうだった。じゃあ、と片手を上げて雨の中を駆け抜ける。
「ねぇ!」
 ……はずが、鳥居を潜ろうとした直前に、大きな声で呼び止められた。仕方なく振り返って「なに!」とこちらも大きな声で返すと、彼は小さな笑みを浮かべてこう言った。
「今度、俺の住んでいるところにも来てよ!」
「えぇ……?」
「そうしたら俺のこと、色々教えてあげる!」
 最後はもう、いっそ清々しいほどの笑顔。なんだよ、探究心に抗えない俺を見抜いているかのような言動。きっとまた心の中を読まれているな、と思いながら、肝心の住んでいる場所を教えてもらっていない。誘ったのは、彼だ。さすがに場所くらいは教えてもらわなければ困る。
「……それって、どこ!?」
 鞄に当たる雨音が煩わしくて、更に大きな声を張り上げてしまった。びっくりしたキツネが、慌てて屋根の上に登り飛び去っていくのが見えて、申し訳ないことをした気持ちになる。当の彼は、ビニール傘を握っていない方の手をゆっくりと挙げて、人差し指で上を指し示した。
(……上? 空ってことか?)
 そんな馬鹿げた発想、普通ならしない。けれど、ああやって笑っている彼であるなら可能なのかもしれない、なんて変な実感まであった。とはいえ、こんな漠然とした答えに納得できるわけもなくてすぐに反論を口にし掛けた。
「待ってるから!」
「ちょ、ちょっと待っ……うわっ」
 突然、横殴りの雨風に身体を煽られて、吹き飛ばされるのではないかと思うほど強い力で体当たりしてきた。思わず身体を丸めてその場で踏ん張ったが、おかげで服はこれでもかというほど濡れてしまった。水分を含んで重くじっとりとした感触に顔を顰めて、傘を渡した直後の災難に鬱々としていると、なかなかに信じ難い光景がそこにあった。
 彼が、いなかった。手渡した傘諸共。
「……」
 待ってるから、なんて言っておきながら、どこにいるのか結局わからないままだ。本当にどこまでも自分勝手で我儘でいいように人を振り回す。もしかして、いままでの出来事はすべて俺が見ていた幻覚幻聴だった可能性もあったが、彼に手渡した傘が無くなっていることがなによりの証拠。
 貸したままの傘。誘われた事実、だからいずれ、またどこかで会えるだろう。そうやって、彼との再会を軽視していたのかもしれない。けれどそれ以来、少年も、あの日貸した傘も、見つけられないままだ。

 三月五日、快晴。
 俺は高校を卒業した。一年前のあの日、雨が降るなかで出会った少年も制服を着ていたから、この時期、どこかで卒業を迎えるのだろうか。それとも、もう迎えたのだろうか。みんなの元へ行く前に、彼と出会った神社にも足を運んでみようか。

(彼がすでに死んでいるなんて、露ほども知らずに)



宇宙と交信した少年の話



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