(綾主/ これの続き)





温かいものに包まれながら、身体がふわりふわりと不規則にたゆたう感覚を、僕は知っている。これはそう、懐かしいと形容するのが正しいだろう。幾度も幾度も繰り返してきた、そんな気がする。
気持ちがいい。こぽこぽと口から零れる泡を、うっすらと開けた瞼の隙間から覗く。青く澄み渡る景色の心地良さに口元が緩む。泡は天へと立ち上り、やがて消えた。行き着く先は、どこなのだろう。
僕に知る術はない。知ろうとは思わなかった。だって既に知っているから。この温かな空間で過ごせるのなら、他をはき捨てても構わないとさえ思える。何故なら此処は、愛しい彼の内の…。

(彼、って、彼のこと?なんで僕はそれを、知っている?)


「くそっ!なんでよりによってこいつだけ…!」
「…ああ」


誰かの悲痛な訴えが耳を突き抜けた。目を開けると、先程までの青く揺れる水底ではない、真っ白で継ぎ目のある天井が視界に映る。学校の保健室じゃない、歴とした病院にちがいない。
ぼんやりとした意識の中、誰かが傍らで二人、佇んでいる様子がわかった。意識をそちらへ向けると、握りしめた拳を震わせ、酷く憤った表情の順平君がいた。対して、隣にいる彼はいつものように無表情だった。
争いや憂いは、あまり好きじゃない。まして、僕の好きな友達が怒りに顔を歪ませているなんて。とはいえ、その原因を作ったのは大方僕だろうけど。


「そんな顔、しないでほしいな」
「綾時!目、覚めたのか」
「…」


順平君の手から力が抜けて拳が解かれたのを見て、ほっと胸を撫で下ろした。心配そうに大丈夫か、痛いところはないか、と矢継ぎ早に僕を問いただす姿に、申し訳なさと喜びが混在する。
彼は、こちらを凝視している。ホワイトグレーの片目が何を思って、何を語っているのかわからない。少しだけ、怖じている僕がいた。


「じゃあ俺、鳥海先生に連絡入れてくるよ」
「ありがとう、順平君」


にっと笑いながら、いいって、気にすんなよ、と言ってくれる順平君の優しさが、僕はとても好きだった。病室から出て行く後ろ姿は、どこか嬉しそうで、何か別の意味合いも含んでいるのかな、と思った。


「この病院、あいつの好きな子が入院してるんだよ」
「そうなの!?」
「だから多分、暫くは戻ってこないと思う。あの顔は病室に寄る気満々だから」


順平君に好きな子がいることは気付いていたけれど、まさか今ここで身近に感じるとは思っていなかったから、素っ頓狂な声をあげてしまった。
だけど、順平君が選んだのだから、きっと素敵な子に違いない。想像だけが先行して、ふふと笑いが漏れた。そんな僕を見て、彼も小さく笑っていた。

フラッシュバックする。最後の瞬間に視界を掠めた彼の口元は、確かに笑みを形作っていた。まさに、こんな風に、だ。
やっぱり、少しだけ怖いかも。


「僕を突き落としたのは、君だね」
「…何のことだ?」
「靴に画鋲を入れたのも、教科書バラバラにしたのも、花瓶割ってぶちまけていたのも、全部君だ」


今まで言い出せずにいた言葉が、堰を切ったように溢れ出した。だけど彼は、まるで僕の言葉を見越していたかのように、悠然とした姿勢で僕を見つめている。
最初こそ、しらを切ったような態度を取っていたけれど、終始黙っていた。否定も肯定もしなかったが、この沈黙は恐らく肯定と捉えたほうがいいだろう。わかりきっていた返答なのに、やはり胸が苦しい。
彼との関係に安寧を望んでいた僕は、こうして何かが瓦解していく音を聞いた。聞こえるように仕向けたのは、僕だけど。


「何故だい?」
「知りたいか?」
「知りたくないと言えば嘘になる。それでも、僕は君に訊いたんだ」

「お前の事が憎いからだよ、綾時」


至近距離にまで僕の顔に近づいてきた彼から吐き捨てられた言葉。中傷的な意志、今までの悪意の集大成をこの身で以て受け止めた…はずだった。
咄嗟に彼の手首を掴んでしまい、今までブレる事のなかった彼の表情に戸惑いが浮かんだ。だけどそれ以上に僕が戸惑っている。

(名前…名前、綾時って呼んだ)


「おい、望月…!」
「名前」
「は…?」
「僕の名前、呼んで」


痛いくらいに掴んだ手首。想像していたよりも逞しく、それでも本当に掴んでいるのかと錯覚するほど儚くも感じた。
僕の要求に応じてくれるとは思っていなかったけれど、動揺で瞳を彷徨わせながらも、彼は掠れた声でりょうじ、と確かに呟いてくれたんだ。
嬉しかった。例え心の底から僕を忌み嫌われていたとしても、僕は彼に呼ばれただけで総ての事象を受け入れることが出来る。そんな気さえ起こるから、不思議なんだ。
実際、さっきまでの暴言のダメージすら忘れてしまったかのように穏やかな僕がいた。それでも咄嗟にはにかんだ顔は、ぎこちなくて引き攣ったものに映ったかもしれないけど。

僕を映した彼の瞳が震える。それから顔を悲痛な程に歪めて、一歩二歩と後退ったあと、膝から崩れるようにして蹲った。


「なんでお前は…そうやって!」
「成瀬くん…」
「今までやってきたこと、何だったんだよ…馬鹿みたいだろ…!」


なんで、どうしてだよ、ちくしょう、と荒々しい自責の念に苛まれた彼の様子が予想外だったから、思わず飛び起きた。地面に打ち付けられた身体が軋むように痛かったけれど、そんなことに気を囚われている場合ではない。小刻みに震えた肩に、躊躇いを抱えたままそっと触れる。
その時だ。彼が内に留めていた感情と、今まで見てきたものであろう情景の波が、僕を飲み込まんほどに流れ込んできた。つきり、と頭に痛みを覚えて顔をぐっと顰めずにはいられない。
そんな痛みの合間に見えたものがあった。僕を取り囲む、見覚えのある少年少女。その中には彼も居る。悲しみを堪え、それでも剣を振るい銃を掲げ続ける彼らを、僕は…。

(ああ…思い出した…思い出した!僕は誰で、君は誰なのかを、はっきりと!)

思考がクリアになるにつれて、己という存在に目の前が暗転するほどに絶望を思い出す。それから、悟った。もう幾度となく、目の前の彼によって不毛な運命が繰り返されていることを。
では、何の為に?彼は?望んで繰り返す?


「どうして…なんで…繰り返すの?」
「綾時、お前…」
「辛いだけなのに?始めから終わりを知っている物語を何度も何度も繰り返して?それでも結末は変わらないのに?」
「…綾時が生きている未来が欲しい。ただ、それだけ」


ゆっくりと立ち上がった瞳に宿る意思は、底が見えないくらい強かった。何も言えなくなって、同時に、この世界にとって招かれざる客である自分を生かそうとする彼を、恐ろしいとも思った。
彼はひたすらに、人ではない「ニュクス」に潜む人としての「望月綾時」を求めている。


「…これで、8回目」
「そんなに…」
「俺の手で殺したこともあった。殺さずに、ただ消えていくお前を見つめることしか出来なかったことも」
「それは、決められた僕の運命だから」
「…一番最悪だったのは、みんながお前を殺そうとした時かな。俺にしか殺せないのにな」


もう何回目のことだか、忘れたけど。諦めたような声音で言うから、堪らずに目の前の青い頭を腕の中に引き込んだ。髪に指を通してゆっくりと梳くと、身を預けてくれたのか寄りかかる重量感を得る。


「憎いなんて思ったことない」
「うん」
「恋人になってもダメ、友達のままでもダメ、言葉も交わさず目も合わさないまま無関係でいてもダメだった。ならいっそ、お前に嫌われて憎まれたなら、敷かれたレールが路線変更するかもしれないって」


背中に回された腕は、檻のように僕を捉える。優しく嫋やかなそれとは違い、まるでここに繋ぎ止めておくかのように拘束している。
僕という存在に振り回され、自らの未来をも捨てた少年につきまとう暗い影が末恐ろしかった。

きっと僕がこの世界に愛され、生き永らえる結末に辿り着くまで、彼の子供のような癇癪は続くんだろう。何回も何回も、僕は彼に殺されて、彼は僕を殺す。そうして、最も望む分岐点に辿り着くまで、彼は自らが主役となる物語を繰り返し続ける。今までも、これからも。


「ああ…きっと、今回もダメなんだろうな。だから綾時は何も知らなくて良い。お前は何も知らずに、また、僕の胎内に戻っておいで」


耳元で囁かれた言葉は、僕さえも知らない究極の死の宣告。



人生ゲーム



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