(綾主) 最初は、グラウンド用のスニーカーに画鋲なんて、子供騙しな嫌がらせから始まった僕への悪意。転校生という立場は、まぁそんなものかなって僕なりに思っていたこともあり、心身共にそれ程までのダメージはなかったと思う。それに、周りが同情の念を抱き、労りの言葉を掛けてくれることもあり、なんて役得なんだろう、ぐらい思っていたかもしれない。 でも日毎にその悪意は、確かな意志を持ち僕に牙を向けた。新しく取り寄せたばかりの教科書は、見せしめと言わんばかりに切り刻まれた。机の上で、どこのものかもわからない花瓶が割られて散乱していたこともあった。 さすがの僕もここまでヒートアップしたとなれば、どうしよう、なんて考えるようになる。だけど対処の仕様が無いのだ。この歳で教師の人へ相談するのもどこかお門違いだろうと思っていたし、実際そこまで深くは考えていない。だからこそ、見えざる悪意は厄介だ。 順平君は、割合冷静な僕に変わって憤りを隠せていないようだし、ゆかりさんはいつもの冷たい態度から一変して、何かと僕を気に掛けてくれた。素敵な友達に恵まれたなぁ、なんて的外れなことを口にすれば、二人から瞬時に突っ込みが入ることも楽しく思える。 「大丈夫か」 「…あ……」 「望月?」 だけど僕は気付いてしまったんだ。気付かなければ良かったのにな、なんて後悔はもう遅い。頭の中が一気に冷え渡り、足元はぬかるみにずぶずぶと沈むような不安定さを感じた。 それが初めて僕に宿った唯一の悲しみと、絶望と、それから少しの恐怖だった。 きっと、この悪意は、彼なんだ。 だからと言って彼を避けようなんて思わない。僕らは日々、何事も無い顔をしながら、懲りずに隣り合わせで過ごした。彼が僕へもたらしているだろう悪意の数々が止むことはなかったが、僕らの関係が歪になることと比べたら脅威にはならなかった。 僕は、彼を好いている。彼がどうであれ、僕の意志は物理的で視覚を害するもの如きに、決して屈折されはしない。 クラスの友人達を介して彼とのコミュニケーションを取っていると、そんな些細なこと、気にならないから。僕にとって、日々の生活を普通に営んでいれば忘れてしまう、その程度のものだったから。 でも、この息苦しさはなんだろうか? 名前もわからない、正体不明の蟠りには知らん顔。そうしなければ、僕らの関係は望まないものに形を変えてしまうことを知っていた。 「ちょっと、トイレ行ってくる」 彼の声で、意識は友人達との輪の中に戻る。中心にいた彼が席を立ち、教室から出て行く姿を視界の隅に捉えた僕は、反射的にその後を小走りで追う。 隣にぴたりと並ぶと、突然現れた僕の存在に少し驚いた顔。にへらと笑えば、息を吐きながら柔らかく笑い返される。それだけで、ほら、この息苦しさをやり過ごせるじゃないか。 もしかしたら。もしかしたら、僕が感じた彼への違和感だって、本当は杞憂かもしれない。人というものは単純だから。一度思い込んでしまえば、自己暗示をかけることだって難しくはない。 「エスコートしてあげようか」 「トイレまでか?随分と投げやりな紳士だな」 それなら行き先変更、購買まで案内してもらおうかな。そう言って、珍しく僕の冗談に返した彼は、恐らく機嫌が良いのだろう。先程までの友人たちの会話を上の空で流してしまっていたことが惜しく感じられた。 当初のトイレの横を通り過ぎ、階段を降りる。この時間でもまだ食べ物置いてあるといいね、三色コロネがいい、君あれ大好きだよね、そんな中身の薄い会話をしながら一段ずつ、最後はたたたんとリズム良く着地。 購買が見えた。ラストの階段に差し掛かった時だった。 「綾時」 名前、呼ばれた。初めてだったんだ。でも、「今までそう呼ばれていた」ような変なデジャヴに苛まれる。一瞬にして感情の起伏が洪水のように激しく心を掻き乱した。 彼の顔が見たくて、振り返ろうとしたのに。でもなんでかな。その時僕は地から足が離れていて、このまま飛んでしまえたらどんなに良かったか。 トン、と背中を押されていた。目の前には無数の段差と遥か下にある一階のフロアが、落下する僕を飲み込もうとしているように待ち構えているみたいだ。 (落ちたら、痛いんだろうなぁ。でも、なんでだろう。身体よりも、心が痛いよ。ねぇ、ねぇ、教えてよ。) 見えない彼は、どこか笑っている気がした。自分が落ちることで笑ってくれるのならば、僕も笑って落ちてあげるよ。そうして何人かの生徒達の悲鳴と脳幹を揺らす衝撃の音を聞きながら、僕の意識はそこで途切れた。 あなたはフィクション |