(主+エリ/ これの続き) 多分、奈落の底の如く深淵で、前を見ることも億劫になっていたんだと思う。決して目覚めないだろう眠りが、永遠が欲しくて。そんな思いが、今に至った結果というわけだろう。なんて滑稽で笑えることか。 「成瀬様、お目覚めの時間でございます」 「…もう少し……」 「あまり…我侭を仰らないでください」 品行方正で上品な響きを持つその声を、どれくらいの間聞いていなかっただろう。急かされたように瞼を開けると、優しい黄金の瞳と目が合い、おはようございます、と起床の挨拶が降ってきた。 懐かしい彼女との再会。喜ぶべきか、それとも。 ふと、そこで気付く。ここは、どこだろうか。一面見渡す限りの青は、かつて彼女とその主が佇んだあの空間によく似ている。 そして、自分とよく似た境遇の少年と相対したことや、全力の彼に一歩譲ってしまった自分のことを思い出していた。 「私と貴方との一戦にも負けるとも劣らない、素晴らしい戦いでございました」 「…そう。ありがとう」 「でも何故?あれだけ頑なで、あの場所を護り続けてきた貴方が」 わかっているくせに。彼女は、僕の意志を確認するために、そして自分自身の思いを確信に変えるために、この問いを投げかけているのだろう。 再び瞼を閉じる。浮かんだのは、仲間と過ごした、たった一年間のあの日々だ。 彼に触れたからだろうか。もう随分と忘れていた仲間の声と顔の断片が、今更になって浮かび上がっては、消えた。 「…うん。ほら、1番って疲れちゃうでしょ」 「まぁ。そんな言葉、誰もが言える訳ではありませんのに。高慢という言葉をご存知でしょうか?」 「調子狂うなぁ、もう…」 口元に手を当てて笑う彼女は、僕との会話を楽しんでくれているのだろうか。いつかの、一緒に出掛けたあの日のように。 あの時は、僕が彼女の手を引いていた。いや、君は、僕が掴む手なんてお構いなしに、外界のあらゆるものに対して興味を示していたね。 やがて、エリザベスの顔から愉悦の色が消えた。多分、今度は彼女が僕の手を引く番なのだろう。最初から、目的はそれだけだった。 「やっとの思いで、こうして貴方と言葉を交わすことが出来たというのに」 「そうだね」 「頑固な貴方は、いつも私を門前払いにして」 「仕方ないだろ、僕も役目を全うしていたのさ」 「でも今の私は、貴方の内にいる。貴方の精神に、こうして呼びかけている。これも全て、貴方を見つけた彼のお陰」 もう、お分かりいただけますね。 そうして彼女は、真っ青な分厚い本を開いた。そこから滲み出たものは、僕が辿った軌跡で、宝物と呼ぶにもそれ以上の価値がある。 17年間の人生の中、最も濃密な時間で築き上げた絆。クラスメイトのあいつ、駅前の古本屋の二人、有限の命を必死に生きた彼。支えてくれた彼らの笑顔が、そこには記されている。 懐かしい。ああ、すごく懐かしくて、あったかいな。 「ひとつひとつは儚いけれど、それらが集まり、形を成す事で貴方の力となった」 「…使い捨てだと思ってた」 「大切な絆だというのに?冗談を仰るのも、もうここまででございます」 ばさばさと捲れる本のページ。僕が、僕という柵を逃れる音だ。ここまできたら抵抗するつもりもなかったので、身を任せる事にしよう。 この場合、どうなってしまうのだろう。現実世界は、僕というイレギュラーを受け入れ、再び命の暦を歩ませようというのか。一度死んだ、この身でさえ。 だけどまぁ、最低で、最悪な結果だな。もう離れないよ、なんて嘯いてしまった。恨まれても、文句は言えない。 「エリザベス、最後にひとつ、お願いを聞いてくれないか」 「どのような?」 「ひとりにしないでやってほしい」 「…お応え出来かねます」 「なんで…!?」 エリザベス、そう呼ぼうとしても届く範囲に彼女は居ない。そうして、猛烈な眠気に耐え切れず、意識はまたもや底無しの沼へ落ちていく。 最後に見たのは、微かに動いた彼女の口許。そこから紡がれた言葉を、僕はまだ知らない。 「酷い人。私の気持ちを察することもできないなんて」 (せいぜいあちらで、御幸せになっていただけたらと) 生きて下さい左様なら |