- 「隆文、もう少し肘後ろかも。うん、そうそう」 同級生、犬飼隆文君の肘を引っ張り、射形を確認しながら、私は汗を拭った。 さんさんとした太陽の光が差し込む真夏の道場で、私達弓道部は今日も練習を行っている。 ついこの間、金久保先輩達が引退した為どことなく不安があったのだけれど、月子や龍之助が上手くやってくれていた。 パン、と聞き慣れた弦音の後にタン、という気持ちのいい命中音が響く。 「隆文、いい矢飛び。綺麗だね」 「ああ、肘こっちにすると引きやすいな!サンキュー、海」 隆文が笑い、私も釣られて笑う。 弓道部は本当にいい人ばかりで、毎日が楽しい。 「海先輩」 いい人ばかりで、仲良しで。 「僕もちょっと見てもらえませんか?」 ……うん。 私は唯一、この後輩。木ノ瀬梓君だけは、若干苦手である。 ***** 彼は天才だ。そして弓道もかなりの腕で、まさに期待のルーキー。 礼儀もあって、顔も整っていらっしゃる。 そんな彼が、私は何だか怖いのだ。何故かはわからないけど、あの笑顔も、裏がある気がして、心の中を覗かれそうで怖い。 「木ノ瀬…」 「あ、じゃあ良かったら宮地先輩にも見てもらいたいですね」 「そ、そっか!龍之助ー!こっち来て!」 龍之助を呼ぶ為に叫ぶと、木ノ瀬は目を細めて笑顔を崩した。(気がした!)ああやっぱり怖いじゃないか!助けて!早く来て龍之助! 「海、どうしたんだ」 「あ、木ノ瀬が見てほしいって」 弓の手入れをしていた龍之助が手を止めて来てくれた。これは心強い、と私は笑顔を張り付けて木ノ瀬に向き直る。あの裏がありそうな整った笑顔が、瞳が、私を見つめた。 「木ノ瀬が?お前…」 訝しげに眉間のシワを増やした隣の龍之助を遮るように、木ノ瀬はよろしくお願いします、と物見を入れる。 相変わらず綺麗な射形で、綺麗な命中であった。龍之助とほんの少しのアドバイスをする。まあ完璧だから蛇足になってしまうかもしれないけど。 指導が終わり、木ノ瀬から少し離れた場所で龍之助が声をひそめる。部活終わったら少し良いか、と。多分おいしいカフェを見つけた事を前に話したから、それについてだろう。 「うん、大丈夫」 龍之助は嬉しそうに(眉間のシワが減った)顔を綻ばせて去って行った。私もそろそろ一立しようと踵を返した、の、だけれど。 「先輩、先輩は4月の自己紹介でこう言っていましたよね。“私は皆の事を名前で呼びます。だから私の事も名前で呼んでください”って」 「き、木ノ瀬…」 弓を立てかけた木ノ瀬は相変わらずの笑顔で私の手をとったままそう言った。 「ほら、またそれ。何で僕の事だけ名字なんですか?」 何か木ノ瀬怒ってる? ものすごく怖いのだけれど。第一私は木ノ瀬が苦手で、木ノ瀬が…。 「…本当だ」 私が開いた口を手で塞ぎ、指摘に納得していると木ノ瀬は変な顔をして首を傾げた。うん、ごめん、でも気づかなかった。 「…まさか、先輩。気づいてなかったとか?」 「…あ、あはは…ごめんね、梓君」 なんたる!失態失態! 苦手意識を持つ余りにこんな失態を犯すとは。 「別に梓で構いませんよ。宮地先輩だって呼び捨てですし」 ああ、でもすっごく嫌われた訳ではなさそうでよかった。私は平和に生きたいです。 「…あ、梓?」 「はい」 「私、練習に行きたいのですが」 梓は手を放してくれる気配が全く無い。梓マジ鬼畜。っていうかこの呼び方恥ずかしい! 「海先輩、気づいてますか?」 「な、何をでしょうか?」 手首を掴む梓の顔が近い。どんなに近くから見ても流石のクオリティ、美男子ってやつだ。 「先輩、僕の名前呼ぶ時顔真っ赤です」 梓は、そう言って妖艶な微笑みを見せた。小悪魔なんてものじゃなくて、もっと腹黒いやつだ。 「…梓、私は君のそういうところが苦手なんだよ…」 この真っ赤な顔をどうしてくれようか。自分でもどうしてこんなに赤くなるのかも分からないのに。 「僕は先輩のそういう可愛いところが大好きです」 嗚呼、ほらまた。私は彼のこういうところが苦手だ。明日からはまた木ノ瀬って呼んでやる! 近くにいた龍之介が彼を怒鳴るのを見ながら、私は額をひんやりとした愛用の弓にくっつけた。 #舌足らずの猫を僕は愛している title by みみ 様 |