いろはにほへど3 | ナノ

(みどり視点)

「もういいよ」

てる姐さんがすっと立って一言抑揚のない声で落とすと襖を開けて出て行った。背の方でぴしゃりと襖が閉められて俺は三味線を放り出して畳に寝転ぶ。何回やっても同じところで指が詰まるのだ。ため息をつくと存外深くて笑ってしまった。俺ももう少ししたら初見世かあ・・・。不安から吐き気が来るのはここのところ毎日だ。


ふとあきを思い出す。あいつは不安になったりしないのかな。あきは同じ新造なのに三味も歌も舞もそつなくこなすらしい。でも口は悪くてあまり好きにはなれないなと思う。ただ申し分ないくらい美しいと評判で同じ新造だというのに道中を控えているらしい。けれど姉女郎たちの評判はいいとは言いがたい。冷めたようなどこか遠くを見ている翡翠に物怖じしているだけかもしれないのだけれど。きっと間夫も持たないだろう。てる姐はやたらあきに構うようだった。俺はあきが持っているものの何一つ持っていないけれどてる姐のあんな言い方ってない。誰が羨ましいのかそれとも憎たらしいのか分からなくなってもう一度溜息をついた。


足音がして慌てて三味線を拾って居住まいを正す。同時に襖が開いた。振り返ると俺が居るとは思わなかったのか、驚き顔のあきが立っていた。じっと見つめ返しているとあきは部屋に入ってきて立てかけてあった別の三味線を手に取る。繁雑な動作に冷や冷やしつつ今から練習をするようなあきに気後れして再び三味線を引くなんて狂気の沙汰のようにも思えた。

べべん、と鳴った。驚いて顔を上げる。悔しいほど美しい音色は染み入るようにも気高く近寄りがたいようにも思えた。ほうと息を呑む。俺の苦労していた節もあきにかかれば御手のものか。ふと気づくとますます引く気はなくなって三味線を片付けようとしたらあきが初めて「みどり」と俺の事を呼んだ。

「えっ」

「曲が進むにつれて指が強張ってる…あと肩に力が入りすぎだ」

「…」

「力抜いていいんじゃねぇの」

その一言に急に何か救われた気になって思わず視界が滲んだ。あきはぎょっとした顔つきで俺を見てくる。そんな顔もするんだと初めて知って今度は笑ってしまう。袖で目元を拭くとあきは三味線を片手にこちらへ来ると俺の指を撫でた。ぬるい体温に指が捕まる。「遊女がこんなたこつくってどうすんだよ。三味上手いより綺麗な手のが喜ばれるぞ」

「そうなの?」

「はつ姐の受け売り。だから無理すんな」

自分に出来ることやればいいんだよ。あきが微笑む。心臓が跳ねて何も言えなくなった。あきは立ち上がって部屋を出て行こうとしたから振り返ってようやく口を開いた。

「あき、ありがとう。案ずるより生むが安し、頑張るよ」

あきは不思議そうになんだそりゃと首を傾げて笑うと部屋を出て行く。俺はまた三味線を手に取って一つ深呼吸。自然と笑みが零れて次は上手く行く気がした。


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