個室に水をぶち撒いたあと、帰ろうと三郎が笑った。 余韻で少しぼーっとしたが、大人しく身支度を整え、三郎の後に続く。 「今日は宅配が来るはずだから、寄り道せず早く帰ろう」 三郎は上機嫌だったが、雷蔵は倦怠感と先ほど浮かんだ自分の考えに、気分が沈んで生返事しかできなかった。 三郎から離れる。 それは店に戻るか、最悪誰も知らない場所でフィギュアに戻るかだった。 三郎に二度と会えない。 頭の中がグルグルした。一番いいことは良く分かっているけど、それに踏み切る勇気がない。もっと他にいい方法が、なんて考えるけど、それが結局逃げでしかないことを雷蔵は知っている。 「あ、いたいた!」 唐突に、明るい笑顔が廊下の向こうから駆けてきた。三郎がうぇ、とうめく。 「は?何、なんで?」 「なんでって……南棟だって言うから迎えに来たんだろ!」 「来ていらんし」 「なんでお前はそう素直じゃないかなー!あ、雷蔵大丈夫?」 ハチがくるりと振り向いて、心配そうに眉を曇らせた。三郎がさっき電話で話していたことを思い出して雷蔵は慌てて頷く。 大丈夫ならいいけど、無理すんなよ、とハチが優しく背中をさすってくれて、三郎以外の手のひらに一瞬びくりとしながら、雷蔵は心配かけてごめんねと急いで謝った。 「いや、いいよ。講義も三郎の出席に丸しといたし。あの先生ゆるいよなー」 申し訳なさそうな雷蔵に、ハチが少し照れたように笑う。コロコロと変わるハチの表情に、雷蔵もつられて笑顔になった。 そういえば三郎のもとに戻ってから、笑うのは大学に誘われたあの日以来だ。あれからずい分と笑っていない。 頬が柔らかくなるのと同時に、なんだか強張った肩から力が抜けたような気がした。 「尾浜は?食堂?」 三郎が軽く雷蔵の腕を引く。ハチが頷いて、席取っといてくれてるはずだから行こうぜ、と先に立って歩き出した。 三郎が雷蔵の腕を掴んだままその後に続く。半ば引きずられる形になって、雷蔵は小走りになりながら三郎をチラリと窺った。 「?さ、三郎……」 さっきまで上機嫌だったはずなのに、三郎はなぜかとても不機嫌そうに雷蔵を見下ろした。 少し唇を尖らせて、それからぷいと視線を逸らす。 「………」 三郎の側にいられるのなら、どんな罰でも甘んじて受けようと思っていた。嫌われててもいいから、三郎といたいと。 でもそれも限界だった。 戻ってからの五日間。あれでもう三郎の気持ちは十分に分かった。この罰は終わらない。三郎は雷蔵を許さない。そう思うとじわりと涙がにじんだ。 そっぽを向いた三郎にそれ以上声をかけられず、雷蔵は落ち込みながら竹谷の背中に視線を移した。 (……そういえば) 三郎は一度、雷蔵をハチの元へ行かせるという話をしていたはずだ。あれは一体どうなったのだろう。 (ハチのところなら、三郎にまた会えるかも……。ううん、三郎の話が聞けるだけでもいい。僕がいなくなれば三郎も不愉快な気持ちにならなくてすむし、お荷物がなくなる) 『俺はフィギュアがあればいいの』 フィギュアに戻れば三郎はせめて側に置いてくれるだろうか。 都合のいい考えに苦笑が洩れる。三郎にとってフィギュアは完全に性欲を処理するための道具だった。 特別なのはただ一つ。黄色のフィギュアだけ。 精液を被ると人間になってしまうフィギュアでは性欲処理には使えまい。 「今度四人で遊びに行こうな!」 振り返ったハチが笑う。三郎が面倒臭そうに返事して、雷蔵も笑顔を返す。 人のいいハチには申し訳ないけど、少しだけ雷蔵のわがままに付き合ってほしい。大丈夫、三郎じゃないなら誰でも同じだ。 もともと雷蔵は、そのために生まれたのだから。 授業が終わったあと。ハチの誘いを荷物が来るからと断って、雷蔵と三郎は連れ立ってマンションに戻った。 「なににするかなー。冷凍庫に餃子の皮があるし、餃子にするか」 形作るのなら雷蔵もできるし、と三郎が夕飯の準備をしている間、雷蔵はいつ話を切り出そうかとそわそわしていた。 「挽き肉少ししかないな……。半分海老のすり身でシューマイ風も作るか。と、しそ買ってくりゃあ良かったな……。挽き肉と合うんだよなー」 三郎はまた上機嫌に戻っていた。他の一人暮らしの大学生を雷蔵は知らないが、三郎はマメな方ではないかと思う。部屋はいつも綺麗だし、物や服が出しっ放しになっているところを見たことがない。 というか、雷蔵が放りっぱなしにしていたものがいつの間にか消えているのがほとんどだ。 つくづく自分は三郎の厄介者である。 三郎が作業台に材料を並べ始めたところで、ピンポーンとチャイムが鳴った。 「来た!来た!」 調理道具も放り出して、三郎が玄関へ飛んでいく。 「……よし」 いい区切りだと思って、雷蔵は腹をくくった。食卓代わりのローテーブルの前に座って、三郎が戻ってくるのを待つ。 どうも、という声と一緒に扉が閉まって、電子レンジくらいの軽そうな箱を抱えた三郎がご機嫌で戻ってきた。 「雷蔵、一緒に夕飯作ろう」 「あの、三郎、ちょっとだけ、先に話したいことがあるんだけど……」 「え……、な、なに、改まって……」 三郎が少し挙動不審になりながら、箱をソファの影に置いて、雷蔵の向かいに腰を下ろした。 雷蔵と眼は合わせるものの、なぜかバツが悪そうに頭を掻いている。 「三郎……。たくさんわがままを言ったり、酷いことをしたり、本当にごめんね」 「え、いや、……改まってどうしたの?」 「僕、ハチのところに行くよ」 「………は?」 三郎が動きを止めた。 カーペットの上に座り直し、ゆっくりと息を吐く。 「なに、いまから?約束でもしてた?」 「そうじゃなくて……ここを出て、ハチのところへ行きます。持ち主交代。三郎にはたくさん迷惑かけて、ごめんなさい」 三郎が無言のまま、テーブルに肘をついて手のひらに顔を埋めた。細いため息がその隙間から洩れる。 「……どういうこと?俺よりハチがいいって?」 「い、いいとか悪いとかじゃなくて、ただ……」 「ただ何?飽きたわけ?」 三郎の声のトーンが完全に下がっていた。三郎が喜ぶとばかり思っていた雷蔵は、三郎の反応にうまく言葉を返せなくなる。 「飽きたとかじゃなく、あの、三郎も前に体に負担がかかるって言ってたし」 「だから体力のあるハチの方にいきたいって?いつの間にかハチともずい分仲良くなってたみたいだし……今日ハチに身体触られて、試してみたくなったんだろ?……淫乱っ!」 バンッと目の前のテーブルを打たれ、雷蔵は反射的に身をすくませた。 よく意味が分からない。身体を触られてって、一体なんのことだろう。 「三郎、話を聞いて」 「聞いてるよ。じゃあなんで雷蔵は俺にすがってきたわけ?びしょ濡れになって、フィギュアに戻ってまで、なんでここに戻ってきたんだよ」 「それは、だって」 なんて言えばいいのだろう。 三郎に会いたかった。三郎に謝りたかった。三郎を傷つけたことが辛かった。 でも、言ってはいけない。 「俺が好きだろ?雷蔵の一番は俺じゃないのかよ」 「!ち、違うっ!」 言ってはいけない。悟られてもいけない。好きだなんて、三郎が一番だなんて。愛して欲しいなんて。 『 捨 て ら れ る 』 「僕はフィギュアだ!三郎なんか好きじゃない!精液くれたら誰だっていいもん!さ、三郎を――好きだなんてありえない……っ!」 勢いのまま叫んだあと、雷蔵は息を切らして咳込んだ。無言のままの三郎を、恐る恐ると上目で窺う。 「……ふーん」 三郎の顔からは、表情と言えるものが全て抜けおちていた。 怒りではない。あえて言うならば、怠惰そうなやる気のない顔というところか。 そのまま三郎は立ち上がり、先ほど置いた箱の前に移動する。 「……三郎……?」 「誰でもいいならハチじゃなくてもいいだろ」 しゃがみこんでごそごそしていた三郎が、発泡スチロールを放り投げた。 ぽこん、と間抜けな音がする。 「お望み通りにしてやるよ。この精液便所」 11.10.3 ×
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