雷蔵。 はちやさぶろうという人間がつけてくれた名前だ。 雷蔵には生まれたときから名前がなかった。 はちやさぶろうは不思議な男の人で、フィギュアでえっちをするのはよくても雷蔵とえっちするのはいやだと言った。 よく意味が分からなかった。気持ちがよくなるのだからはちやさぶろうにだって悪いことばかりじゃないはずだ。 はちやさぶろうは、口の割りに快楽に弱かった。いやだやめろと言う言葉は服を脱ぐ頃には形だけのものになり、雷蔵は何度もはちやさぶろうに跨って彼を犯した。雷蔵は快楽のためにしているわけじゃなかったけれど、はちやさぶろうが眉を歪ませて呻いたり、思わず腰を揺すったあと我に返って赤くなるところを見ると、なぜか胸がきゅうきゅうとなった。 「ぁむ、ん、さぶろ、きもちい?」 「っく、も、やめろ……って、」 雷蔵としては三郎の嫌がることをするつもりはない。大切なご主人さまなのだから、できるだけ気にいられるようにしないと雷蔵の存在の危機だ。 分かってはいるが、三郎を見るとつい誘いたくなってしまうのだ。三郎の赤く染まった耳に小さく口づけして、唾液で濡れた三郎の性器に跨る。三郎が悔しそうに唇を噛んで、両腕で顔を覆った。繋がる瞬間、三郎がよくやる仕草だ。かわいい。ふわふわする。 三郎は性行為はあまり乗り気じゃなかったけど、雷蔵にあからさまに冷たくしたり、手を上げたりすることはなかった。人間の男女でもそういうことがあるそうなのに、赤の他人のような雷蔵にも三郎は優しい。 「ほら見てて。今鰯を手で捌くから」 「手?」 「そ。内臓と骨を取ったら、包丁でミンチにして――」 お父さんのところで雷蔵は幸せも学んだつもりだったけど、三郎との毎日はドキドキの連続で、そんなものは比べものにならないくらいだった。雷蔵は三郎が家にいる間はずうっとくっついていた。 本を読むのも、三郎の料理している姿を見るのも、三郎とセックスするのも、みんな好きだった。 『人形に戻りたくない』 初めはただの脅迫観念だったそれも、日が経つうちに形を変えていった。三郎と一緒にいたい。人形の姿で側にいるのではもの足りない。ぺっとりとくっついて三郎の料理する手元を眺めたり、三郎の胸に吸いついて痕を残したり、小説の話をして笑い合ったり、そういう日々がいい。 三郎から竹谷の元に行くように言われたときも、雷蔵は特に嫌だとは思わなかった。雷蔵が人の形でいるためには精液が必要なのだ。本当は五日もつのだけど、雷蔵はできるだけ頻繁に摂取しないと不安でたまらない。でもそれで三郎が死んでしまうのは絶対にいやだし、三郎以外に抱かれるなら別に誰だって一緒だ。三郎を休ませるなら五日以内ですむかもしれないし、すまないようなら一度だけ精液を飲ませてもらおう。あくまでも雷蔵のご主人さまは三郎だ。 しかし、三郎は戻ってこなくていいと言った。 雷蔵はショックで一瞬口が利けなくなった。戻ってこなくていいと言うことは、もう三郎と小説の話をしたり、夕食を作ったり、一緒に眠ったりできなくなるということだ。 雷蔵はとても悲しくなった。もう二度と会うこともないと言った三郎に、胸が押しつぶされるような気持ちになった。 三郎はそんなに雷蔵を抱くのが苦痛だったのだろうか。雷蔵だって、三郎の嫌なことはしたくない。したくないけれど、交接しなければ雷蔵は人の姿を保てない。雷蔵はフィギュアの姿で三郎の側にいたいんじゃなくて、三郎と話したり笑ったり、ぎゅっとくっついていたいのだ。 「人形に戻りたく、ない、の、」 三郎に触れられない人形に。 勇気を振り絞って訴えてみたが、三郎から返事はなかった。悲しくて悲しくて、雷蔵は三郎の部屋の前でぐずぐずと泣いた。 三郎は優しいから、雷蔵を捨てたりせず、他の人のところにやるんだと言う。雷蔵は泣いて泣いて、他の三郎の側にいられるフィギュアが恨めしくなった。 そうだ、他のフィギュアがなくなれば、三郎は雷蔵を置いておいてくれるかもしれない。 酷い考えだった。三郎が怒るのも当然だった。 最終リミット目前でダンボール箱を見つけたときは、本当に嬉しかった。数がいくつか減っていたような気がしたが、もう探している時間はなかった。 大事そうに別に飾られていた黄色のフィギュア。それが残っていたことに安堵して、あとは三郎のマンションまでびしょ濡れままひた走った。 三郎は許してくれるだろうか。 日はもう落ちている。 素足のまま追い出され、さらにびしょ濡れなものだから、色んな人から視線を寄越された。でもそんなこと関係なかった。時間がない、時間がない、時間がない。 マンションの呼び鈴を二度押して、そこではっとした。三郎は雷蔵に会いたくないかもしれない。顔も見たくない、三郎はそう言ったのだ。許す許さない以前の問題ではない。扉の前に置いていこうか、でも三郎の顔を見て直接謝りたい、でも罵倒されたらどうしよう、開ける前に扉越しなら、ああでも。 雷蔵は今まで何かを選択したことがなかったので、自分がものすごく優柔不断なことに気づいていなかった。 雷蔵が迷っている間に、扉の向こうで人の気配が動いた。三郎だ!雷蔵の心臓が嬉しさで跳ね上がる。頬に血が上る。三郎、三郎! 好きだ、と思った。 同時に、お父さんの言葉がよみがえる。 人間に恋をしたら、捨てられる。 (ああ、一目三郎に会いたかった) きゅう、そのまま、雷蔵の意識はブラックアウトした。 11.3.30 ×
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