目を開けると、厚めのカーテンがゆらゆらと淡い陽を通していた。
朝か、と思ってごそりと寝返りをうつ。いや、昼かもしれないけど、カーテン越しの陽の光だけでは分からない。時計を見るのも億劫で、三郎はリビングのソファーでブランケットにくるまったまま、ぐりっとソファーに額を押しつけた。

「――三日目、か」

雷蔵を追い出してから丸三日が経っていた。
自分で追い出したにも関わらず、三郎は雷蔵が帰ってくるのではとこの三日、一歩も外に出ていない。大学の無断欠席も今日で三日目だった。

「……やばいなぁ」

腹の虫は鳴いているのに食欲はない。最も、食欲が湧いたところで冷蔵庫には水とマヨネーズくらいしか入っていないのだが。
三日前、焦燥に駆られるまま買い物をしないで帰ってきて、その時点で冷蔵庫の中は、ちくわが二本と揚げだし豆腐で残った木綿豆腐が半丁だけだった。調理する気力がなかったから、両方生でかじった。
多分などと言うまでもなく、やばい。

ブランケットに埋もれた携帯電話は、電源を切ってそのままにしてある。多分電池も切れているだろう。竹谷や尾浜は心配しているかもしれない。二人とも、おせっかいだから。

「………っ、」

あれから三日。本当は、雷蔵がもう戻ってこないと分かっていた。
三日だ。丸三日。最後にセックスしてからは五日目になる。あれだけ頻繁に精液をねだっていたのだから、きっと人型はそう長く保たないのだろう。店に戻ったか誰かに拾われたか、そのどちらでもないなら雷蔵はいまごろきっと――フィギュアに、戻っている。

きりきりと胸が痛んだ。そんなつもりじゃなかったなんて、言い訳にならない。

「だって、戻ってくると思うじゃないか……」

俺しか頼る相手はいないって、そう思うだろ?

一時の激情に流されながらも思い浮かんだことは、捨てないでとすがる雷蔵だった。
誰でもいいなんて嘘だと、三郎ただ一人がいいと、眼に涙を溜める彼ならどれほど良かったことか。
竹谷に雷蔵を渡そうと思っていた気持ちは、少なくともあの時は本気だった。彼を手放し、今までの平凡な日々に戻りたいと願ったのも事実だった。それでも、打算的な感情で、確信していたことが一つある。
竹谷に雷蔵は抱けない。
だから戻ってくる。いくら乱暴に追い出したところで、雷蔵がすがれるのはここだけ。
無意識の底で、三郎はそんな打算を持っていた。

「雷蔵が、フィギュアじゃなかったら、精液なんかいらなかったら」

きっと仲良くなれたはずだ。
一緒に買い物に行って、一緒に台所に立って、向かい合って食事をして、気に入った本の話をして。それができたらどれほど良かったことだろう。
三郎は寂しかった。友人はいても、それらは三郎の全てを受け入れてくれるものではなく、三郎はいつも何かを求めていた。
それは生涯の伴侶かもしれず、身を預けられる友人かもしれず、依存心の強いわりに臆病な三郎は、その影を人ではなく思い入れのあって安易なフィギュアに求めた。

自分は雷蔵に、それを望んでいたのか。

そうに違いないと思った。
それなら説明はつく。雷蔵がいなくなっただけで、胸が潰れてしまいそうな喪失感も、再会が叶わぬ絶望感も、全てが友情だというのなら。

「………」

三郎は息をついて寝返りを打った。
考えたくない。考えなくてもいいことだ。

そうでないというのなら、この気持ちに別の名前がついてしまう。

それは――









雷蔵は、小さな街のすみにある、小さな人形専門店で生まれた。
生まれたときから周りには仲間がたくさんいたし、お父さんも優しかったから、雷蔵は寂しいなんて思ったことは一度もなかった。

お父さんは生まれたばかりの雷蔵に、慣れた風に色々なことを教えてくれた。
雷蔵はフィギュアで、お父さんたち人間とは違うこと、男の人の精液で人間と同じ姿になれること、雷蔵の引き取り手がもう決まっていること、男型の雷蔵は、もう人間の姿になれないかもしれないこと、精液の効力が――五日で切れること。

生まれたばかりの雷蔵には、それらがどういう意味なのかよく分からなかった。

一日たち、二日たち、お父さんや仲間と暮らすうち、雷蔵は徐々に幸せを知っていった。
それに追随するように、喜び、楽しむことも分かるようになり、フィギュアに戻るとこれらが全てなくなるのだと知ったときは、その恐ろしさに雷蔵は震えた。

四日目の夜、怖くて怖くて、雷蔵はお父さんに精液を下さいと頼んでみた。けれど、お父さんはお前は商品だからダメだと言ってがんとして譲らなかった。

雷蔵はすごく悲しかった。

雷蔵は男型だから、ここでフィギュアに戻ったら、もう二度と人型になれないかもしれない。せっかくお父さんに作ってもらったのに、そんなの悲しすぎる。
死んでるのと一緒だなんてやだよ、雷蔵がちょっぴり泣いてしまったら、大事に飾られるのもフィギュアの幸せだよってお父さんに頭を撫でられて、雷蔵はお父さんを困らせるのがいやでうんって頷いた。

お父さんは優しい人で、もしなにかあったらいつでも店に戻ってきなさいと言ったけれど、でも人型になれなければ戻ってくることもできない。そう思ったけど、雷蔵はお父さんの優しさが嬉しくて、やっぱりなにも言わずただ頷いた。

五日目。お父さんは一番大事なことを話すと言って、雷蔵を呼んだ。

『持ち主に特別な感情を持ってはいけない』

特別な感情、の意味が分からなくて、雷蔵はしばしきょとんとした。お父さんはつらそうに眉を寄せて、人は飽きっぽい、と言った。
ここはフィギュア専門店。人型になるフィギュアを一つ買っていって、もう来なくなる人もまれにいるけれど、そうじゃない人の方が圧倒的に多い。三ヶ月に一度の割合で来店する常連さんもいる。そういう場合、フィギュアはほとんどが廃棄か棚の上かダンボール、そして――。
お父さんの目線を追って、雷蔵はぞっとした。
このお店のフィギュアは全部お父さんの手作りで、お客さんの注文で作ったものばかりなのに、見本の他に中古品がいくつも並んでいる。本当は返品は不可なのだけれど、お父さんは優しいから全て引き取ってしまうのだ。

『……こうやって、他の人のもとへ行くこともある。そうしたら、今度はそこが新しい家で、新しい主人だ。前の主人を引きずってはいけない』

お父さんは真剣な顔で、だから特別な感情など抱いてはいけない、と言った。
雷蔵はとにかく、捨てられたりフィギュアのままでいることだけが恐ろしかったから、うんうんと何度も頷いた。

『人間とフィギュアだから、人間だってフィギュアに恋されたら困るんだ。いずれ結婚もする。なのにフィギュアに好かれたりしたら、持て余して捨ててしまうかもしれない。だから、決して、決して、人間に恋してはダメだ』

恋ってなあにと問いそうになって、雷蔵はお父さんの表情を見て口をつぐんだ。
雷蔵は、結局自分のことだけを考えていればいいのだな、と思った。そう、「精液」ってのさえあれば、雷蔵はとにかくずっとこのままでいられるんだから。
男型の自分は、もしかしたらもう一生このままかもしれない。だから、もしなにかの奇跡で人型になれたときは、戻らないようにがんばろう。「精液」にだけ執着してればいいんだ。

作られてからきっかり百二十時間後、雷蔵の意識はそのまま途切れた。



初めて意識をなくした日のことは、きっと一生忘れないだろう。それから、二度目の人型になれた日のことも。

「っはあ!」

川の水は冷たかった。
九月も半ばだ。まだ暑い盛りとはいえ、朝、夕は冷えてくる。

「夕暮れ……。今日で五日目、か」

マンションから少し離れた、大きな公園の川だった。
公園とはいえ、木は遥か遠くまで生い茂り、この間は釣り人の姿まであった。綺麗に整備されてはいるが、自然公園という名にふさわしい、広くて大きな公園だ。
雷蔵は、ここに、この川に三郎のフィギュアを捨てたのだった。

「ない……。流されちゃったのかな……」

ダンボール箱ごと捨てたのだ。もっと下流まで流された可能性もあるし、途中でひっくり返って沈んだ可能性もある。
そもそも、捨てたのが夜明け前の暗い時間だったので、捨てた場所も明確ではない。
冷たい川を流れ、水に沈んだフィギュアたち。

「……っ」

罪悪感で胸が痛んだ。ぽつぽつ、眼から涙がこぼれる。
自分もフィギュアなのに。捨てられることがどれだけ怖いか分かっているはずなのに。自分勝手な思いで仲間を川に沈め、三郎も傷つけた。

「……最低だ……」

三郎に出会う前の雷蔵なら、こんな酷いことは絶対にできなかっただろう。三郎の言う通り竹谷のところへ行くか、潔く店に戻っていたかもしれない。雷蔵は、人型でいることだけが重要だったのだから。
なのに、今の雷蔵にはそれができなくなっていた。
雷蔵以外のフィギュアが三郎のそばにいて、三郎に愛でられるのが、堪えられなかった。

「嫌われ、ちゃった、な」

そう思うとさらに泣けてきた。
川の水は体温を奪う。体が冷えると思考も落ち込む。涙で視界を曇らせながらも、雷蔵はフィギュアを探すのを諦めなかった。
三郎にはもう嫌われてしまったけれど、でも三郎の大事なものだけは返したい。三郎は、雷蔵に名前をくれた人だ。なんだかんだと言いながら、優しくしてくれた人だ。三郎が悲しむのは、雷蔵も悲しい。

時間がない。

三日の間、川をだいぶ下っていた。雷蔵の体はすでにびしょ濡れである。このまま川の中で意識を失ったら、二度と三郎に謝ることはできないだろう。
フィギュアに戻ることより、三郎が悲しむ方が嫌だった。
謝りたい。
許してもらえないだろうけれど、もう二度と優しくしてもらえないだろうけれど、雷蔵にはそんなことくらいしかできない。

「……陽が、沈んじゃう」

夕陽は真っ赤に燃え、地平線を無情に焦がしながら、沈んでいく。









ピンポーン、

呼び鈴の音に、三郎は昼間起きたときと全く同じ体勢のまま眼を覚ました。
どうやら昼間、あの格好のまままた眠ってしまったらしい。カーテンの向こうは陽が落ちて真っ暗だった。

「……廃人みたいだな」

自分で突っ込んでみたが、ぴったりすぎて笑えなかった。

ピンポーン、再び呼び鈴が鳴り、三郎はぐしゃぐしゃと頭をかき混ぜながらもソファーから起き上がった。どうせ竹谷か尾浜だ。大学から両親に連絡がいったのかもしれないが、そんなことでやってくるような親ではないし。

ぼさぼさの髪をかき混ぜ、艶のなくなった顔を緩く撫でる。体毛は薄い方だが、さすがに髭の気配がした。きっと顔色も悪い。
心配ないと言ったところで、この顔では却って心配させるだろう。友人たちはおせっかいで、心配症だ。
のそりと玄関に降り、放ってあったサボに足を突っ込んだ瞬間。ドサッ、バサッとドアの向こうで何か物の落ちるような音がした。

「……竹谷?尾浜か?」

「………」

声をかけても返事がなかった。
なんだなんだ、イタズラか、嫌がらせか?
雷蔵のことはちらと考えたが、まさかそんなはずはないと思った。くるならもっと早くきているだろうし、三日も経って戻る理由がない。

「………」

覘き穴を覘いてみたが、人の姿はなかった。やっぱりイタズラか、と思いながら、ドアの前に置かれたものを確認するために、三郎はゆっくりと扉を開ける。


「……あ?」


そこには、びしょ濡れの小さなダンボール箱一つと、同じくびしょ濡れの見覚えのある洋服一式が、無造作に散らばっていた。





11.2.18

エロがない……。次回!次回と次次回、そして最終章は趣味で突っ走ります

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