三郎がマンションに戻ると、雷蔵はいつものように寝室にこもって本を読んでいた。

大学で専攻している学科が特殊分野なので、三郎の数ある蔵書は専門書がほとんどである。が、それでも推理小説などの娯楽小説も混じっていて、雷蔵はその娯楽小説を片っ端から読み漁っているのだった。
人間のように食べたり排泄したりということがないので(水は飲むが)それこそ朝から晩までぶっ通しである。

「雷蔵」

「三郎!お帰り!」

その本のおかげか、人型になった当初はたどたどしかった言葉も、すでに一般人レベルに達していた。むしろ、その辺の頭の悪い高校生よりよっぽど立派である。

(どんどん人間社会に順応してくなぁ)

本にしおりを挟んで立ち上がった雷蔵が、とてとてとやってきて三郎の口を吸おうとした。

「………」

順応している、と思ったとたんすぐこれだ。唾液を流し込まれる危険を察知し、三郎は無言で雷蔵を押しやってげんなりと背中を向ける。

「キスもだめ?」

「駄目。俺今から飯食うし」

キスで終わるはずがない。雷蔵の目的はいつもどんなときでも精液である。
せめて、羞恥心や性欲が人並みだったら──そう思って三郎はため息をついた。

実際、異常に性行為が多い他は、雷蔵との二人暮らしに特に支障は無かった。むしろ、認めたくはないが三郎はこの二人暮らしを案外と楽しくすごしている。
最初のころは、自分の顔がうろうろしているという都市伝説的な怪奇現象に、三郎も眉をひそめていたが、それもそのうちに慣れてしまった。

三郎が食事をしている間、することのない雷蔵はにこにこしながらその日に読んだ本や、テレビの話をいかにも楽しそうに三郎に話して聞かせるのが日課だった。
今日読んだ人情系捕物帖の話を雷蔵が熱く語るのを聞きながら、そういえばその作家に一時期どっぷりはまり、著書を網羅しかけたのだと思い出す。確かダンボール箱につめてクローゼットの奥に積んであるはずだ。雷蔵が気に入ったのなら出してやろうか。

自分で作った揚げだし豆腐を食べながら三郎が考えていると、雷蔵がその揚げだし豆腐を示して無邪気に首を傾げた。

「おいしい?」

「ああ、うん。雷蔵、そのシリーズなんだが……」


「三郎の精液とどっちがおいしい?」



…………食欲が減退した。



一気に食事をとる気がこそげ取られ、三郎は箸を置いて頭を抱える。
やっぱり無理だ。楽しいとか楽しくないとか、そういう問題じゃない。このセックスしか考えてないエロ生物と暮らしていられるか!

三郎は腐れ縁の友人の顔を思い出して、食事のあと話そうと思っていたことを今切り出すことにした。どちらにしろ食欲はもう湧いてこない。

本当なら、フィギュアになった雷蔵をゴミに出すのが一番いいと三郎も分かっていた。
どのくらい日数がかかるかは分からないが、精液を摂取できないよう雷蔵を閉じ込めてしまえばそれでこと足りる。
しかし、自分と同じ顔をしているせいかそこまで非情になれないのだった。どさくさでつけたとはいえ、雷蔵という名前も絡んでいるのかもしれない。

昔父親にもらった戦隊ヒーローのイエロー、『雷蔵』は、ケースに収まったままテレビの隣りのガラス棚に大事に飾られていた。
明らかに他のフィギュアと扱いが違う。美少女やら美少年やらフィギュアは多々あるが、それらは一つのダンボール箱に収めてガラス棚の下に詰め込んであった。寝室にはあまり持ち込まない。

「三郎?」

頭を抱えたまま動かなくなった三郎に、雷蔵が首を傾げた。今日の雷蔵の服装は白いロングティーシャツと膝のすっぽり隠れるハーフパンツで、最初の全裸っぷりとは大違いである。
ロングティーシャツから覘く鎖骨から眼を逸らしながら、三郎はふ、と息を吐き出した。

「うん、雷蔵」

「なぁに?」

にこにこしている雷蔵に、三郎もにっこり笑う。

「他のところに行きなさい」

「………他の、ところ……?」

きょとんとする雷蔵に、三郎は笑顔のまま頬杖をつき、こっくりと頷いた。

「この前来た二人のうち、竹谷八左ヱ門ってのがいたろ?」

「ハチ!うん!分かるよ!」

「あいつんとこ行ってきな」

三郎の言葉に、雷蔵の眉尻が少し下がった。今度は露骨に困惑の顔になる。他人と接触するな、外に出るなといままで散々言いつけていたのだから当然だろう。

「雷蔵が来てからもうセックスしっ放しだ。このままじゃ俺は死ぬ。だから、持ち主交代」

箸置きを茶碗の前からお椀の前に移動させると、雷蔵の顔がやっと明るくなった。まあ淡白な三郎より、見た感じから血気盛んな竹谷の方がいいんだろう。分かっているが、ちょっとむかつく。

「分かった!三郎がちょっと休憩している間に、僕はハチから精液をもらえばいいんだね。それで、いつまで?」

「いやだから、交代。雷蔵はハチのもの。戻ってこなくてオッケー。俺安眠、雷蔵は精液たっぷり万々歳」

箸をテーブルに放って三郎がバンザイすると、にっこり笑う三郎に雷蔵がなぜか一瞬言葉を失くした。ティーシャツの襟首を握りしめ、すがるような眼で口をぱくぱく開け閉めする雷蔵に、三郎は首をひねって両手を下ろす。

「あ、あの、……じゃあ、三郎とは、もう、その」

「あー、もしかしたらもう会うこともないかもなー」

「でも、それじゃあ三郎もセックスできなくなるし、」

「俺はフィギュアがあればいいの。つかまるでモテないような言い方すんな!失礼な」

「でも……、僕だってフィギュアなのに……」

「いやむしろ別ものだろ」

食器を重ねて立ち上がると、雷蔵はそれ以上反論はしなかった。が、顔を上げることもなかった。
もっと喜ぶかと思っていただけに、三郎は意味が分からず、キッチンで食器を洗いながら頭を掻く。まさか、フィギュアのくせに三郎に対して情でも湧いたのだろうか。

「……それはないか」

そもそも誰でもいいと言ったのは雷蔵だ。二週間前ではあるけれど、三郎はしっかり覚えている。その時のことを思い出して、三郎は食器棚に洗い終わった食器を乱暴に突っ込んだ。雷蔵は一言も発しないまま、大人しくテレビを見ている。

「雷蔵」

「……はい」

「風呂入ってこい。俺あとで入るから」

雷蔵の眼が迷うようにうろりと走った。一緒に、と言いかけた雷蔵にタオルと着替えを押しつけ、無理やりバスルームへ追い立てる。いつもなら三郎を引きずりこもうとする雷蔵が、今日は一人で素直に入って行った。

それから、三郎はリビングのソファにクッションとブランケットを用意し(フィギュアが風邪をひくのかは分からないが念のため)、それから寝室に籠もってドアの鍵をしめた。もしものためにドアノブに紐をかけ、ベッドの足に結んでおく。ドアは外開きなのでバリケードというわけにはいかないが、これで鍵が開いたとしてもドアを引くことはできないだろう。

「やりすぎかな……」

一瞬そう思ったが、しかし雷蔵を拒めないのはこの二週間で確認済みだ。竹谷に押しつけると決めたのに雷蔵を抱いてしまっては何の意味もない。

「風呂は明日の朝、だな」

先に入ることも考えたが、そうすると雷蔵に乱入されたとき逃げ場がない。朝風呂はたまにやるし、きちんと着替えれば大丈夫だろう。

時間はまだ早かったが、三郎はさっさと寝ることにした。楽な格好に着替え、ベッドに滑り込む。そのまま丸くなって、三郎は久しぶりの安眠を得るため眼を閉じた。


こんこん


三十分もしないうちにドアを叩かれ、うとうとしていた三郎は眼を覚ました。
ごそりとドアの方に寝返りを打ち、ドアの向こうに耳をすます。

「さ、ぶろう……、あの、開けて」

「………」

「僕、あの、ごめんなさい。三郎がいやって言ってるのに、いつもいつも……。でも、あの……開けてくれない?顔を見て話したいよ」

「………」

「三郎……、眠ってるの?」

こんこん、とまた控えめにドアが鳴った。三郎がそれでも答えずにいると、しばしの沈黙のあと、ドアの向こうから微かに鼻をすする音が聞こえてきた。

「……僕、人形に戻りたく、ない、の……」

ずっ、ぐすっと、鼻をすする音が続く。いまにも押しつぶされちゃうんじゃないかって、心配になるくらい、震えた声だった。
ひっく、ひっく、と喉を鳴らして、何の反応もないドアの前で雷蔵はすすり泣く。三郎はぎゅっとブランケットを握りしめ、固く眼を閉じた。

開けるわけにはいかない。
本当は、三郎はすでに、雷蔵への情で流されかけている自分がいることを知っていた。
二週間一緒に暮らして、肌を合わせて、それで何も思わなかったらその方がおかしい。
でも、雷蔵から逃げたいというのも言うまでもなく本音なのだ。無機質で、三郎に対して何のアクションも起こさないフィギュア。三郎にはそれで十分だ。

三郎が黙っていると、やがて、ぺたんぺたんとスリッパを引きずる音と一緒に、すすり泣きが遠ざかって行った。それを聞きながら、三郎は天井を見上げ、両手で顔を覆う。

大丈夫、雷蔵がいなくなればまたいつもの三郎の日常だ。変わることはない。これからも、きっと。



しばらく眠れないままだった気がしたが、覚醒したとき寝室には朝日が差し込んでいた。いつの間にか眠っていたらしい。
時計を見ると、大学どころかラジオ体操にも早すぎる時間だった。

ベッドの足から紐を外し、鍵を開けてリビングへ出る。ソファの向こうで、丸まったブランケットが規則正しく上下していた。音を立てないよう慎重にドアを閉め、三郎はこっそり雷蔵に近づく。

毛布から突き出た顔を覘くと、雷蔵の肌は青白く、目尻は赤く腫れていた。ぱさぱさの、自身に似た髪がクッションの上に散らばっている。

ずきん、とした。
本当に、なんでこんなことになったんだろう。フィギュアを買っただけのつもりだったのに。
ふう、とため息をついて、なんとなく正面のガラス棚に眼をやって――――三郎は違和感に眉を顰めた。
ソファを迂回してガラス棚に近づく。見間違いかと一瞬思ったが、そんなはずはなかった。


ガラス棚の中の『雷蔵』が、こつ然と消えていた。





10.9.9

あれ、毎回えろ入れる予定だったのに……

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