歩く歩く歩く歩く歩く。手と足を交互に出してただ黙々とひたすら、歩く。

「三郎!」

突然声をかけられて三郎はびくりとした。辺りを見渡すとすでに大学の周辺で、三郎はアスファルトとにらめっこしていたために痛む首を背後からやってきたボサボサ頭に向ける。

「……竹谷」

「よ!三郎今日二コマ目からじゃなかったっけ?」

「……ストーカーか」

「な、ち、ちが、水曜はいつも朝会わないから、別に調べたとかじゃ」

「冗談だよ」

人のいい腐れ縁にちょっと笑って返すと、竹谷の眼がぱちぱちと瞬きしたあと心配そうな色に曇った。

「三郎……?どうかしたのか?」

「あ?なにが?」

「なにがって……元気ないだろ?」

直球な竹谷の言葉に一瞬息がつまった。鈍いくせに鋭いこの腐れ縁が三郎はときどき好きでときどき大嫌いになる。
強いて言えば髪型がキマらなかったことかな、と三郎が嘆いてみせると、三郎のあちこちに跳ねるふわふわしたくせ毛を見て竹谷が珍しいと笑った。

「そうだ、三郎んちに行く話だけどさぁ」

「ああ……」

急にもじもじと指を絡ませ始めた竹谷を見て、そういえば竹谷は雷蔵のことが好きなんだっけと思い出す。雷蔵を竹谷に押しつけようとまで考えていたのに、昨日から今日にかけての出来事のせいですっかり忘れていた。

「雷蔵いないぞ」

「あ、帰ったのか?」

「ん」

「でもそんな遠くねぇじゃん。今度は雷蔵も誘って遊ぼーぜ」

「………」

言葉少なな三郎に対し、竹谷はやけに楽しそうだった。足を速めた三郎にも気づかず竹谷はあれをしようそこに行こうと話しかけてくる。

「それで、三郎んちだけど」

「だから雷蔵いねぇしまた今度」

ぶつりと会話を断ち切ると、いや雷蔵は別に、と言いかけた竹谷を無視して三郎はたどり着いた講義室の扉を閉めた。竹谷には申し訳ないが彼の恋心が叶うことはきっとない。
三郎?とかかる声に返答しないでいると、しばらく扉の向こうで逡巡していた気配はそのうちぺたぺたぺたと足音をつれて遠ざかっていった。

三郎一人しかいなかった講義室は一コマ目の半ばくらいの時間からちらほらと埋まり始めた。三郎はその間ずっと携帯電話をいじって俯いていた。二コマ目を終えてから尾浜や竹谷と合流し、いつも通り学食に陣取る。少し三郎を気にしていたような竹谷も、尾浜と普段通りに会話する三郎を見てもう今日はなにも言わなかった。

(そうだ、夕飯の材料買っていかねえと)

全ての講義を終えて帰路につくためキャンパスの敷地を歩きながら、三郎は冷蔵庫の中が空に近いことを思い出して財布を取り出した。
一人暮らし用の冷凍庫はさして大きくないので、自然買い置きよりこまめに買い物に出ることが多くなる。店屋物を嫌うのでなおさらだ。
昨日が豆腐だったから今日は魚か肉にしようと財布と相談し、みじん切りなどの作業を喜ぶ雷蔵のためにハンバーグとミネステローネにでもするか、と決める。
挽き肉は今の時代一人分に小分けされたものが売っているし、雷蔵は固形物を一切食べないからそれで支障ない。問題はミネステローネに使う野菜だ。小分けされた野菜でもまだ多いし、たくさん作って魔法瓶に入れて弁当にでもするしかない。こういうときは雷蔵も食べられれば便利なんだけどなと思う。
雷蔵は自分で全く料理ができないくせに、三郎が料理しているのを見るのが好きだった。雷蔵がいちいち感心するのが面白くてここ最近は手の込んだものばかり作っている。ミネステローネなんて作るのは一体どれくらいぶりだろう。

そこまで考えてはっとした。

「………」

だめだ。
あれほど望んだはずの日常がいつの間にかずれている。

いってきますと言うといってらっしゃいが返ってきて、ただいまと言うとお帰りなさいが返ってくる。雷蔵を買ったのが八月二十八日で、あれからまだ半月ほどしか経っていないのに雷蔵の存在はすでに三郎の日常になっていた。

いってきます、いってらっしゃい。ただいま、お帰りなさい。そんなやりとりはこれまでの三郎には一切なく、もちろんいまだっていらないし欲しくない。そもそも雷蔵を追い出したのは三郎だ。
マンションの周りが気になって仕方ない自分がいやだった。雷蔵の姿を探して走り出そうとするこの体が嫌だった。衝動を突き上げて三郎を急かそうとするこの心臓が嫌だった。

日常が戻ってこない。
大事なものは自分自身で、それ以外なにもいらなかった自分が戻ってこない。

いつの間にか駆け出していた。
マンションの階段を駆け上り、雷蔵が扉の前で待ってやしないかと期待する。

「……雷蔵」

しかし、三郎の部屋の扉の前には人影どころか猫の足跡一つなかった。施錠を外し、返事がないのを分かっていてただいま、とがらんとした室内にこぼす。ソファーの上に、今朝まで雷蔵が使っていたブランケットがくしゃくしゃになって丸まっていた。

『雷蔵』を捨てられたことはもちろん腹立たしい。もうない、と言った雷蔵に、一生戻ってこないのだと思うと悲しいし悔しい。けれど、自分は本当にそれほど『雷蔵』に執着していたかと言われると、それも怪しかった。

三郎はもう分かっていた。そんなことではない。
雷蔵が三郎の大事なものを理解してくれなかったのが悲しいのだ。雷蔵が三郎の気持ちより性行為を優先させたのが悔しい。雷蔵が三郎をそういう目でしか見ていないことがつらい。雷蔵が、雷蔵が、雷蔵が、

ソファーに腰かけ、三郎はくしゃくしゃのブランケットをぎゅうと抱きしめた。三郎、と呼ぶ雷蔵の声が聞きたかった。

雷蔵の唇の感触、舌の甘さ、腰に絡んだ足、ブランケットを抱きしめるうちそれらが鮮烈に蘇ってきて三郎の頭の芯をくすぐる。

「……っくそ!」

もともとが淡白でも、二週間の間溺れるほどに浸りきった快楽の習慣はやすやすと抜けなかった。連日の行為を思い出すうち膨らみ始めたそこに、三郎は狼狽して唇を噛む。
久方ぶりに自慰をしようにも、買いためたフィギュアは雷蔵に捨てられてしまっていた。モテないわけではないが女の子を抱くのも経験上不可能だと分かっている。

「っ、……は、ん、う……」

『さぶろ、きもひい?』

下着から引きずり出すとそこはすでに反り返って先走りを垂らしていた。想像とも記憶ともつかない雷蔵がネバネバした先走りを手のひらでのばし、性器の先端をぱっくりとくわえる。

「ぅんっ、ん、は……ぁ、」

唇から卑猥に屹立した性器を出入りさせ、先端の窪みを舌で刺激しながら雷蔵が自分の下着の中に手を差し入れた。後ろ手に尻の窪みを撫でた指先が柔らかい襞に埋まるのが衣服の上からでも分かる。
ぬちゅ、と湿った音が響くのと一緒に、雷蔵の口内から唾液が溢れ出て三郎の性器をしとどに濡らした。

「雷蔵、自分の指で感じてんの?」

『んん、…はぷ、らってぇ……』

「ね、それ下ろして。雷蔵のお尻が指しゃぶってるとこ見たい」

よだれと先走りでべとべとになった顔を上げて、雷蔵がくしゃりと眉を歪ませた。もじもじと尻を揺らしたあと、ゴムに指をかけてするりとハーフパンツが引き下ろされる。反り返ってへそにつきそうな性器と、雷蔵の指を二本飲み込んだ淡い色のそこが三郎の前にあらわになった。

「雷蔵、もう二本入ってるの?毎日してるからどんどん柔らかくなってくね」

『ひぅ、あ、うう……』

「俺のおちんぽしゃぶって興奮した?」

『ん……っうん、あ、さぶろうのおちんぽ、おいしいぃ』

くち、くち、と雷蔵の尻に埋まった指が早くなった。ティーシャツの上から尖った乳首を撫でてやり、そのぷつりとした感触を楽しむ。雷蔵の手がかたかたと震えて三郎の太ももに唾液のシミができた。

『さぶろぉ、三郎の精液、雷蔵の中にちょうだいっ』

中途半端に下がったままだったハーフパンツを脱ぎ捨て、雷蔵ががまんできないと言うように膝に跨る。柔らかくほどけた最奥にぎゅうと先端をくいしめられ喉から低いうなり声が出た。

「はぅ、う、……っく、だめだ、も……っ」

雷蔵の中に埋まるのを想像して性器を握った両手を早める。

「っん、ふ、…………っくぁッあ――!」

強い絶頂感に頭をのけぞらせ、三郎はソファーの背もたれに後頭部をおしつけた。干上がった喉がひゅうひゅうと音を立て、反り返らせたのど仏をなだめるようにごくりと唾液を飲む。
はあ、はあ、と荒い息を落ちつかせながら、三郎は呆然と自身のべっとり汚れた手のひらを見下ろした。

「……っは、はぁ、はぁ……」

達してしまった。
フィギュアもないのに、雷蔵とセックスする想像であっけなく。

くしゃくしゃに丸めたティッシュペーパーをごみ箱に向かって投げつけ、三郎は真っ暗な部屋の中で膝を抱えて丸くなった。





10.11.29

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