飾り棚の下の扉をスライドさせるとそこにあったはずのダンボールもなくなっていた。
いや、ダンボールのフィギュアは別に構わない。もともと執着心は薄い方だし、なんとなく捨てにくかったから取っておいてるだけで、別に大事にしているわけじゃない。じゃなきゃ棚の下に乱雑に入れておくものか。

でも、『雷蔵』は違う。

たった一度。たった一度だけ、父親が三郎に買ってくれた――

「……さぶろう?」

棚を乱暴に開け閉めする音で眼が覚めたのか、雷蔵が体を起こしてのんきに眼を擦っていた。
三郎は部屋の中をぐるりと見渡し、眉間にしわを寄せる。険しい顔の三郎に、雷蔵がブランケットに埋まったまま首をかしげた。

「三郎?どうかした?」

「……ここにあった、フィギュアは」

雷蔵が三郎の背後の棚を見て、ああ、と手を打った。

「捨てたよ」

あまりにもさらりとした雷蔵に、三郎は眼を剥いたまま言葉も出なかった。

「す、てたって、なんで……」

「だって、フィギュアがなきゃ三郎は僕を抱いてくれるだろ?」

「………」

昨日の夜、全部まとめて捨てちゃった
雷蔵がにっこり笑ってソファーの上でのびをした。
雷蔵の言ってることををじわじわと理解して、三郎の顔からすっと表情が抜け落ちた。咄嗟に床を蹴りかけ、しかし、拳を握ってそれをぐっと飲み下す。そのまま三郎はくるりと踵を返した。

「なんなんだ」

さぶろう?雷蔵の声が追いかけてきたが、三郎は振り返りもせずサンダルに足を突っ込むと、そのまま蹴たてるように玄関を飛び出した。

エレベーターを待ちきれず、三郎はゴミ捨て場に向かって風のように階段を駆け下りる。
なんなんだ、なんなんだ!三郎にはあのフィギュアの気持ちがさっぱりわからなかった。三郎の代わりをあてがうと言ったのに、雷蔵は三郎のもとから離れるのを嫌がり、挙げ句の果てに三郎のフィギュアを捨ててしまった。
人形に戻りたくないと、その気持ちは三郎にだって想像くらいできる。しかし、三郎のフィギュアは関係ないじゃないか。三郎は走るスピードを緩めないままぐしゃぐしゃと頭をかき回した。寝起きでぼさぼさの髪がますますしっちゃかめっちゃかになる。

最後の三段を飛び降りてマンションの前に躍り出た三郎は、息を切らしたままその場に膝をついた。

「………」

はぁはぁと、荒い息づかいが体の中で反響する。ゴミ捨て場に頭を突っ込んで、ゴミ漁りの真似をする必要はなかった。そこにあるのは指定の半透明のゴミ袋が数個のみ。ダンボールも、フィギュアが入りそうなものも、一目見ただけでないことが分かった。





胸の内側が燃え盛り、三郎はがんがんとコンクリートの壁に足音を反響させながら、階段を三階まで一気に駆け上がった。この世に生をうけてから今まで、これほど憤怒した記憶はない。
雷蔵がきてからだ。
雷蔵を買ってから、精神の振り子はあっちへ揺れこっちへ揺れ乱れ、三郎をめちゃくちゃにかき回している。
こんなのはいやだ。こんな自分は知らない。
怒りと正体不明の焦燥に、三郎は心臓を食い破られるようで、無意識にぎりりと唇を噛んだ。

「雷蔵」

「三郎、お帰り」

勢いよく開けた金属の扉が、ばあんっ!と音を立てて跳ね返った。早朝の騒音にも関わらず、よく両隣の住人が飛び出してこなかったものだと思う。最も、両隣の住人が飛び出してきたところで、誰も三郎を止めることはできなかっただろうが。

「どこに捨てた」

ぺたり、土足のまま上がり込むと、ソファーから立ち上がって三郎を出迎えた雷蔵が、そこで初めてたじろいだ。
表情の消えた三郎の怠惰な半眼を見て、雷蔵の歯がぐっと己の唇に食い込む。

「……教えない」

「あ?」

壁を蹴ってやろうかと思ったが、さすがにそこは自制心が勝った。

「教えない。でも、もうないと思うよ」

だから僕を抱いて。昨日もしてないからしたいでしょ?
にこりと笑った雷蔵が腕を伸ばして三郎にすり寄った。そのまま三郎の首筋に柔らかい唇を押しつける。
ちゅ、っという濡れた音が離れると同時、三郎の中で何かが切れた。

「こい」

三郎の唇にキスを落とそうとしていた雷蔵を引き離し、その腕を力まかせに引く。

「さ、ぶろう?」

無言の三郎に、雷蔵の素足がたたらを踏んだ。抵抗する雷蔵を引きずり、コンクリートの沓脱に引きずり下ろす。そこで三郎の意図に気づいたのか、三郎と同じ顔が蒼白になった。
やめて、三郎、お願い、ごめんなさい、半べそをかいた雷蔵にも、なぜか罪悪感や同情心は一切芽生えなかった。力まかせで雷蔵を扉の向こうへ押し出し、ドアにすがりついた雷蔵を冷たく見下ろす。

「二度と顔も見たくない」

一言吐き捨て、三郎は青白い顔ですがろうとした雷蔵を無視してそのまま扉を閉めた。こんこんこん、続くノックの音を歯牙にもかけず、三郎はガチャンと鍵をしめチェーンロックまでかける。やはり、昨夜と違って罪悪感はかけらも湧かなかった。胃の焼けるような気持ち悪さに吐き気がする。

感情的になっているのはわかっていた。しかし、それを止めることはできなかった。

頭を切り替えるためシャワーを浴び、お湯をかぶっている間になんとか頭に上った血を冷やす。
びしょ濡れの頭のままでリビングに戻ると、そのころには扉の向こうの気配はなくなっていた。さすがに諦めたのだろう。くしゃくしゃの髪を拭きながら三郎はゆっくりため息をつく。
感情的だ。腹を立てても表に出さないことなど三郎には息をつぐより簡単なことだったはずなのに。

「……ふ」

もうどうでもいいやという気持ちがわいてきて、三郎は少し笑った。もしかしたらこれから雷蔵が声をかける人間がちょうどよく青年好きの変態で、案外とぬくぬくやっていくかもしれない。店の位置は把握していたから店に戻る可能性だってある。

もそもそと着替え、ソファーに沈んで別に興味もない星占いにチャンネルを合わせた。双子座は運勢最高だった。

「……そうだ、もう雷蔵に振り回されることはないんだし、まさに運勢最高じゃないか」

ばちんとテレビを消して、三郎はよし、と膝を叩いた。財布と携帯と筆記用具、レポート用紙と三コマ目で使う資料だけを鞄に入れて玄関に降りる。

「じゃあ、五時には帰るから、外に出るんじゃ――」


『わかった。帰ってきたらいっぱいえっちしようね』

『お前はそればっかりか』

『車に気をつけて。待ってるから、三郎』


「………」

いってらっしゃいも見送る笑顔もないまま、三郎は重い金属の扉をしめた。ガチャンという音が寒々しいコンクリートにやけに大きく反響して頭がずきずきした。





10.11.29
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