その女の人生は涙の海である。赤子の頃から泣いて、泣いて。幼児期を過ぎても泣いて、思春期を過ぎようとしている今も泣いている。 何がそんなに悲しいのか。何がそんなに泣かせるのか。その女の涙は、まったく俺の心には理解できない。肩を竦める俺の前で、その女は今日も昔と変わらずただひたすら涙を流す。現実では決して流れやしない涙をほろほろと。 「いつまで泣いているのだよ」 「私、泣いてないよ」 変なの、緑間くんもおかしいよ。その女の声は小学生ぐらいに集めていた硝子玉を覗きこんで映る世界のように淡い。 射す光や回し方によって世界を反転していく万華鏡の華やかさには劣ってしまうが、優しくチカチカと光る硝子玉。そういえば、赤に橙と紫が溶け合った空を描く夕暮れに失くしてしまった硝子玉はどこに行ってしまったのか。気がついたら手元から消えていた硝子玉の行方がどこだったか回顧する。ああ、そうだ。その女の涙のようにどこかに落としてしまったのだろう、きっと。 まだ俺たちの手の中に、あのチカチカと光る硝子玉がたくさんあった頃はもう遠退いてしまった。しくしくと流さないといけない涙を落としてしまったその女の傍に居ても、俺の手は手持無沙汰だ。 泣くな。 ただの慰めのことばさえも、空気に散漫して原子に溶け込み場に漂う。行き場のない廃棄行きのことば。 この気持ちを、他人は「はがゆい」と言うのだろう。しかし、当人の俺からしたらこの気持ちは「腹立たしい」だった。 ××× 中3の冬の終わり。歴史ある進学校であるためにスポーツ推薦でも一応は受けておけと言われた一般受験。そして、受けたには形式上でも合格発表を確認しに行こうと思った。周囲のハラハラと受かっているかと不安な色を濃くしている受験生らと、ただの確認作業で感情が片鱗も動かない俺。前者と後者の間にある深い溝は埋まることも難しいほどに深い。 自分の受験番号が掲示板にあるのをあっさりと見つけ、確認作業を終えたので家に帰ろうとする。載っているか載っていないかで、一喜一憂する自分と同い年の彼らを無感動に眺めた。 その中には見覚えのある顔がちらほら。マンモス校で有名な帝光の生徒らも当然のように何人か秀徳に受験していたのだろう。まだ自分の番号を見つけれていないのか、食い入るように視線がボードに釘付けだ。他にも涙ぐむ女子生徒や言い知れぬ哀愁を背負った男子生徒も。表情ひとつ、動かさないでこの場を去ろうとする人間は恐らく俺以外いないだろう。 人盛りができている場所から離れ、正門を通って帰ろうとした俺の目にある女が映った。地元の中学校の紺のセーラー服。まだまだ寒さが抜けない東京の冬の終わり。紺のプリーツスカートの上には濃紺のダッフルコートに、マフラーと防寒対策が万全の様子。 友達だろうと思わしき女子。その女と同じ紺のプリーツスカートをはためかせる女子がひとり、一緒だった。連れの女子はわんわんとこれまでかというほど泣き喚いていた。ぼろぼろと大粒の涙を滝のように。まるで幼稚園児が大泣きしているのとさほど変わらまい。 隣でその女はあれよこれよと連れの女子を慰めていた。昔からそうだったな、と中学に上がる前からすっかり交流が絶った幼馴染みのことを久しぶりに思い出す。 泣いているやつを放っておけなくて、それなのに誰よりも泣き虫で。泣きたい気持ちを堪えながら慰めるも、最後は揃って泣いているなんてしょっちゅうだった。だから、いつも俺が慰め役に。………いつからだったか、そんな日常が終わったのは。 おぼろげで、あやふやな沼に足を取られる感覚が。ごぽりっ。息の泡が連なって口から上へ水面を目指す前に溶けていった。 とにかく、お互いわざわざ声をかけるほどの年でもなく気軽な関係性を築いてはいない。しかも、あっちは話しかけるタイミングではないのは明確だ。 記憶にあった面影より「大人」に近づいたその女の、わんわんと泣き叫ぶ女子の隣にいる顔を眺めているとある違和感に囚われる。しかし、あまりにと微弱なもので見間違えかと納得し直して俺は静かにその場を去った。 家に帰った時、その女の名を母さんが口にした。ねえ、と呼びかけた後に付いてきたのだ。 「そっちで見かけなかった?」 「どうしてあいつが出てくるのだ」 「え、だってあの娘も秀徳受けてたのよ」 「……………見てないのだよ」 あの場で泣いていた女子は明らかに落ちたことに対して泣いていた。間違っても受かってはいなかった。そして、いくら子供っぽい人間であろうとも受かった人間に対してあれほど号泣しないないだろう。 ならば、あの女は 云わぬが花。秘すれば花。知らぬが仏。 ―――うんざりだ。 ××× 高尾が英語がヤバいヤバいと五月蝿いものだから、仕方なく勉強を見てやることに。まったく、勉強というものは五月蝿い奴とするものではなくガヤガヤと五月蝿いファミレスなんぞでやるの間違っている。 はあ。苛立ちまじりの息を吐くと、やっと高尾が席に戻ってきた。さきほど「ちょ、ブレイクタイム。頭パンパンで知恵熱起こしそうだからブレイクタイム」と言ってドリンクサーバーに逃げ出したのだ。 「なあ、あの制服って×××高だよな」 「知らん」 「つれねーな、真ちゃん」 「至極どうでもいいのだよ。お前はさっさっと勉強でもしてろ」 「えー、真ちゃんのいーけーずー」 あれからもしばらくはシャーペンは握っているが、くるくると器用にペン回しをしているだけで一向に勉強をしようとしない高尾に俺はもう知らんと匙を投げた。 俺がずっと飲んでいた烏龍茶が切れて仕方ないと席を立ち、ドリンクサーバーへ。すると、ドリンクサーバーで立っていたら女の金切り声が背後で響いた。 「あんたが悪いのよっ!」 店内が騒然とする。近くにいた店員の怯えた様子で「他のお客様にご迷惑がかかりますので………」云々と注意する声も聞こえた。別れ話か、とファミレスの女の金切り声で連想できる安っぽいことを考えながら視線をそちらに向けるとーーー息が詰まった。 アスファルトにうっすらと薄い氷を膜を張らせるほどにまだ寒さを残す冬の終わりの日。知らぬと切り離したあの女が見開く瞳の中に映り込んでいる。女と、ずっと金切り声をヒステリックに上げる女子は同じ制服に身を包んでいた。先ほど高尾が野次馬精神を垣間見せた際、口にした高校の制服だ。 あんたのせいよ! あんたの悪いの。悪いったら全て悪いの。何でさぁ、そんなに図々しく入れるワケ? ワケわかんないのだけど。てかさ、何でずっと無言なワケ? フツーさ、責められてるって分かってるのならさ謝るでしょ、フツーに。あんたの口からごめんなさいのごの字も聞いてないんだけど。ねえ、聞こえないんだけど。てか、何も言ってないよね! さっきから! そうだもんね、そうだもんね。ずっと無言なワケってアタシ聞いたか! あっははは、ちょーうけるわ。自分で言って気づいてないだとか。ごめんごめん。これはアタシが悪かった。許してよ、ねえ! 許してって! ごめんなさいごめんなさい! えっと、ここの代金わたしが持つからね! あっ、じゃあお金あげるから。今、そんなに持ち合わせないからとりあえず7千円でいいですか? ご、ごめんなさい。家に帰ってもっと取ってくるから大丈夫ですよ。そうですね、10万頑張ってきますから! あと、落書きしますか? わたしの体、無駄に長いから書くとこいっぱいありますよ。マジック出しますね。だから。だから、許して下さいよ! ヒステリックな女子は最初こそは女を親の仇の如くに修羅を背負って責め立てていたが、今となれば逆転し親を殺さないでと死神に縋る子供のように泣きじゃくってる。ぼろぼろと。春の雪解けを待つ、あの冬の日に見たシーンと重なる。 店員もどうしたらいいのか分からず、ただ呆然とその場の空気に呑み込まれていた。無論、注意できない店員だけではない。近くにいた客や俺も含めて誰一人、そのシーンにカットを切ることができない。 ややしてから、店長らしき男が奥から出てきてその場面にカットを切ろうとする。「お客様っ!」それが合図だったのか。さっきから情緒不安定な女子が、負を纏った弱者から元の怒りに染まり切った悪鬼へと姿を変えた。カチリ。スイッチを切り替えたように容易く。 「最低だわ、あんた」 店長らしき男が何か行動を移そうとする前に、女子はテーブルに当然のようにあったお冷を目の前でずっと無言で俯く女にぶっかけた。 ……………。誰も彼も息さえも止まった静寂。女子はブロードウェイを歩く女優さながらに堂々とした佇まいで、テカテカと黒光りするカバンと安っぽいブランドのコートを手に取り去って行く。 その一連の流れを誰も止めることはできなかった。まるで道のサイドにいる報道者やファンに壁役となって塞ぐガードマンが女子の傍らにいたかのように。 コツンコツン。ローファーが床を擦る音が遠退くと、やっと場にいた人間は息ができたのか店長らしき男が「と、とりあえずこちらで事情を………」と女を奥の事務所に引っ張ろうと。 そこでようやく、女は顔を上げた。 「どうして、今もそんな面を浮かべているなのだよ………」 苦々しくことばを吐き出した俺の目には女の顔が映っている。あの冬の終わりの日と同じ顔だったそれは、微弱な違和感しか放たない。誰も聞こえない、静か過ぎる慟哭だ。どうして俺にだけ解る。どうして、気づかせたんだ。と、誰に責めれば良いのか分からない思いがふつふつ沸いてきた。 春を待つ冬が終わる日と、春が遠退いた冬が始まる日。その女はまた涙の海に人知れず沈む。次こそは溺死できますようにと、そんなことを秘かに願っていることも俺は分かってしまった。 ああ、と奥歯で頬肉を噛む。硝子や鉄よりも硬い歯は、ぶつりと鈍い音を立てて頬肉を破いた。意外に脆い鉄の生ぬるい味が口内に広がる。 もう時間だと何か言いたげな高尾を視界から追い出す。奴は去る前に、俺を見ずに「緑間、風邪引くなよ」と言い残した。日に日に寒さが増していく今日。日が暮れれば日中の暖かさは冷たさへ一変する。 春はまだまだ先だ。寒いと、待っているトンネルの前で息を吐く。それは白くならなかった。冬はまだ遠いのを実感する。 高尾と別れたのは茜色が眩い夕暮れ。それから2時間としない間に日は沈み、辺りは藍色なのか紫なのかどっちにつかずな暗色に包まれた。家族には一応、帰るのが遅くなると連絡している。今日の蟹座のラッキーアイテムであるフライパンはちゃんと鞄の中に。問題はない。ただ、天が俺を見放さなければいい。 数えることを止めた電車がまた通る。天は俺を見放しはしなかった。 「久しいな」 「えっと、緑間君がどうしてここに」 俯いているからその女の顔は伺えない。だが、その女が今も変わらず微弱な違和感しか放たない面を浮かべているのは手に取るように分かる。これはたぶん、間違い探しで探している最中やまだ見つけていなければ全く気づかないのに、見つけてしまった瞬間からもうそこしか目に入らなくなるようか感覚と似ていた。 あのファミレスから家に帰るにはこのトンネルを通る。その女と近所に住まう俺にしか分からなく、真っすぐ帰るとの賭けだった。もし、違う方向へ寄り道でもされたら堪ったものではない。 「お前、今日ファミレスで一緒にいたのは………」 「ファミレス? ああ、いたんだ今日。ごめんね、うるさかったよね」 「それは別にいいのだよ。それより、一緒にいたやつは誰だ」 「ああ、あの子は友達だよ。時々ね、ちょっとああなっちゃうんだあ。でもね、悪い子じゃないから」 あんな騒ぎがあったと言うのに、「ああ」の感嘆で済ますのか。しかも、アレが友達とのうのうと抜かす始末。そう吐いた瞬間も微弱な違和感しか放たない面は揺れる。 これは、この感情は何だ。胸をつん裂くように猛らし燃やして鋭い痛みを伴う、この気持ちは。 「あれが友達のワケないだろう」 「じゃあ、同じ学校の子でいいよ」 「そういう問題じゃない。アレは何だったんだ」 「普通に、放課後2人でお茶したしてただけだよ」 「アレが普通なワケない。おかしいぞ、さっきから」 「おかしいかもね、確かに。でもね、それがあの子の普通でそれに付き合う私の普通にしないとならないから」 「おかしい、おかしいぞ。お前のその考えは狂ってる」 吐き捨てる息は白くならない。透明のまま。見えないままだ。まるでその女が流す涙のようだと思えた。 だって。と、硝子玉のように淡い声が震える。頼りない街灯に照らされた顔はずっと変わらない。だから、どうしてお前はいつもそうなんだ。 「だって悲しんでる人が、泣いている人が救われないなんて―――かなしいじゃない」 ならば、その女が救われないのはかなしくないのか。現在では泣けない泣き虫なその女は誰が救うのか。残酷な優しさを安売りするその女を誰が救うのか。 凍てつく冬を越えた春になれば、その女はやっと声を上げて泣くのか。自分のためだけに、我が儘に自分勝手に。その女が救おうとした人々のように泣いてくれるのか。 春が来たら、春に変われば、春となれば。落っことした涙を、雪解けたことにより見つけられるのか。嗚呼、と天を仰ぐ。春よ、来いと。 しくしくと、悲しみをドロドロに溶かしたその女に涙を見つけさせて欲しいのだと。 しくしくと、声を押し殺して弱々しく人知れずに泣いているその女に涙を返して欲しいのだと。 まだ春はふたりを許さないらしい 「いつまで泣いているのだよ」 「私、泣いてないよ」 変なの、緑間くんもおかしいよ。淡い泣き声が、俺の耳には届いた。 嗚呼、春よ。はやく冬を越えて、この女の元に迎えに来てくれ。 企画「泣きたい」様 提出 Diana. より 素敵な作品に参加させていただきました。ありがとうございます!! |