東京には空がないと、彫刻家で詩人であった男の妻があどけなく言っていた。
では、東京には夜空も存在しないのではと思う。こればかりは東京だけに限った話じゃなかったか。「この世には」との表現がぴったりだろう。
今、目に映る暗色に包まれた地球の薄い膜に隠れてしまって、蠍の火が煌々と輝けないのだ。ただ現実を映したこの真っ暗な天にはその他の星さえ見えない。金色(こんじき)の月がぽっくりと暗い色に塗り潰した面に穴を開けているだけ。ああ、なんてむなしいことか。
上着を羽織ってこなかったことに後悔した。まだ完全に冬ではないが、日が暮れれば冬のように冷えるのだ。白い息こそ口元で膨らまないけど、寒いと感じる身体は過敏に反応していた。あったまろうとわずかに熱を持ったミルクティーの缶を呷る。

「あっま」

試しだと思って飲んでみたがやっぱりダメだ。この甘ったるい味がなんとも言えない。甘い。本当はブラックが飲みたかったのに、自販機の補充のやつが仕事をサボっているのか温かいのブラックは売り切れの赤ランプが点灯していた。
自販機を蹴ってやりたい衝動に駆られたが、いかにもボロそうな身なりだったからそれで何かあっても面倒だと思い、舌打ちだけして大人しく引き下がった。コンビニに行けば良かったが、そこまでやる気がイマイチ上がらなくて温かいのとこでまだ残っていたミルクティーを買うことに。でも、口付けた後に後悔した。あー、最悪。
口の中に残る甘さに眉をひそめながらも、ちびちびと飲んでいく。小銭が返ってくるワケないし、それに勿体無いから仕方なくだ。
あのオンボロ自販機同様に、この公園も廃れているのは暗くても分かった。人が寄りつこうとしない取り残された空間。あたかも亡霊のようだ。だからか、補充の仕事も怠るのだろう。亡霊は普通、人の目には見えないから。
この吐き出しようのないわだかまりのつっかえを感じながら、また天を仰ぐ。やはり、星は見えない。
世界全体が幸福でない限りは、個人の幸福はなどあり得ない。東北の童話作家は言う。だから自己の命に執着していた蠍は最期に、神へ「みなのさいわい」のためにと祈った瞬間に真っ赤な火となってやがては星となったのだ。あの人は、いつも自分はあの星のようになりたいとまだ夜空があった世界で煌々と瞬くアンタレスを指差し言っていた。
そう、あの人はそうあることを望んでいたんだ。馬鹿のひとつ覚えみたいに。東北の童話作家が書いた本を大切にしていた。でも、あの人が大切にしていたものは今は―――――
ここに博士がいるなら訊いていたのかもしれない。ほんとうのさいわいはどこにあるのか。そんなものは貴方が行った実験のように、あの銀河を駆ける鉄道のように幻じゃないのかと。真実を求め、まっすぐな瞳を大人に向けて。
…………………。
当たり前のように。東京に空がないと同じで、現実に答えを示してくれる博士だっていやしない。車のエンジン音やうるさい街の音が聞こえるだけ。偽物の輝きに騙された祭りのような騒がしさが遠くで聞こえるだけだ。
はあ、と息を吐く。馬鹿らしいと、何ヤケになってんだと。ズボンのポケットからケータイを取り出す。薄っぺらのじゃなくて、パカパカのちょっとぶ厚くて質量感があるほう。
今はスマホやら薄っぺらケータイが主流だから時代遅れだし変えたらとお節介を言われたことがあったが、壊れていないのに変える必要性が見出せないから「めんどう」と返したのを覚えている。そんなことを思い出しながら、待ち受け画面の真ん中にデカデカと分かりやすいように表示されている時刻を確認。
もうそろそろ潮時か。来たる時のために寒い夜の下で甘ったるいミルクティーを呷っていんだ。
行くかと横に置いた重みを感じるカバンを持つ。
気を引き締めて腰を下ろしていたベンチから立ち上がると、遠くから汽車の音が聞こえてきて、音はだんだん高まると次は低くなっていく。聞き間違いかと耳を疑った。だって、東京のこんな都会の一角で汽車の音がするなんておかしい。でも、耳は汽車と同じ調子でセロのような声で誰かが歌っているような気もしてきた。
あの人が大事そうに本の表紙を撫でながら口ずさんでいた、星めぐりの歌をくりかえしくりかえし。

「なにこれ………」

もう都会の音は聞こえない。遠く遠くに聞こえていた汽車の音がしだいに大きく、耳を占領する。耳を塞いでも聞こえるのだ。
ワケが分からないことに狼狽えていたら、どこからか不思議な声が。銀河ステーション、銀河ステーションといったかと思うと、目の前がいきなりばあっと明るくなった。
まるで、それは銀河を駆ける鉄道に乗り合わせた少年が見た景色と重なる。螢いかの火を化石にして空中に沈めたふうに。または隠されていた金剛石を誰がひっくり返してばらまいたふうに。
笑いがこぼれた。そして怒りも。ふつふつと、自然に。

「私がジョバンニってことかっ」

ごとごとごとごと。
音を立てて、小さな列車が走り続けている。目の前の景色が信じられないと目をこすっていた少年と同じように、夜の軽便鉄道の小さな黄いろの電燈のならんだ車室で窓から外を見ながら座っていた。

「切符を拝見いたします」

赤い帽子を被った背の高い車掌が、私が座っていた席の横にまっすぐ立っていた。切符なんて持っていない。気がついたらワケも分からず、ここに乗り合わせていたのだから。
でも、記憶にある本の描写をなぞらえてもしかしたらと思って上着のポケットに手を入れると、案の定か四つに折られた大きな紙があった。それは実際に目にする必要もなく、終着駅の天上も含め他のどこでも行くことが可能である切符なのだろう。
ふざけるなと。紙をぐしゃりと握り潰す。こんな物、私は欲しくない。

どうして、私がジョバンニに選ばれたんだ。
どうして、このタイミングで乗り合わせるんだ。
これじゃあ、あの人がカンパネルラになってしまう。

行き場のない怒りが、さらに握り潰す力へ変える。力んだ感情のせいか、言葉が乗る前の吐き出した息も震えていた。

「………持ってない。切符なんて持ってない」

だから、降ろしてくれ。こんな茶番に付き合ってられるか。ふざけた夢からさっさっと醒めて、私は帰る。蠍の火が見えない本物の、嵐の海の如く激しい荒波や身を世界すらも焼き尽くすような劫火の中との現実へ。
だから、カンパネルラとどこまでも一緒に行ける切符なんていらない。こんな物はただの気休めだ。
ぎゅぅと握り潰していると、不意に大きな手が「これ以上は」と制するように私の腕を掴む。一瞬、あの人かと期待した自分が腹立たしく思えた。ああ、早く早く。夢から覚めないと!
夢に侵食されてしまう。

「なんですか」
「『大人』になりたいなら嘘を吐くのはよくないぞ」

大らかで何でも包み込もうとする、あの人の面影がまたもやチラつく。矛盾したことばで説教をしようする男、いや背が高い車掌の顔へ視線を上げる。

「私、大人に『なりたい』ように見えますか。これでも今年で18になります。一応、大人ですけど」
「年はあまり関係ないんだけどなあ、これは」
「じゃあ、何を見て」
「んー、それを理解できないうちはまだ子供ってことだ」
「はあっ?」
「っま、座れよ。切符は拝見したし、とりあえず貰えるものは貰ってもバチは当たらないと思うぞ」

さっきから意味不明の車掌の口から「切符は拝見した」と聞いて、すぐさま上着のポケットの中を確認する。紙を取り出すと、上等な紙のようで肌触りのいい緑色に染まった紙の隅にはハンコの跡が。「あっ!」
この跡が「切符は拝見したから」を意とするのは一目瞭然。してやられた! ぐしゃりと、上等な紙はすっかり皺くちゃで張りの良かったであろう時の姿は見る影もないほど。
恨めしさを込めた視線が自然と鋭さが増す。威嚇する獣同様の唸り声を上げて睨むも、車掌は相も変わらず朗らかに笑っていた。

「その切符、天上だって行けてしまえる代物なんだ。さっきも言ったが、使わずに捨ててしまうのはもったない」
「じゃあ、あげる。私には不要だから」
「あっはは、それができたら苦労しない。残念ながらその切符はお前だよ。他の人間は使えない代物だ」
「それなら、」
「プレゼントした奴はお前にここから見える風景を見せたかったのだろうな」

車掌の癖に仕事せずに、あろうことか客である私の前で堂々とサボる男に胡乱な目を向ける。しかし、男は弁えることもなく図々しくも「ほら、すごいぞ」と同席に促す。でも、されるがままに流されるのが嫌だったから私は意地でもその場から一歩たりとも動かなかった。
頑な思いを知ったのか、それともはなっから強要をさせる気がなかったのか。車掌は気に留めない様子で、私から窓へ視線を再び戻す。「これが噂のってヤツだよな」
車窓の賛辞の声が、ごとごとごとと音を立てる車内に溶けた。別に見たいワケじゃなくて、他に見るものがないし嫌でも目に入ったから仕方なく見ることになった風景。そこは最初に感じた通りに、“ほんとうのさいわい”を探す少年たちが目にした筈の景色となんら変わらないものが広がっている。

ハレルヤ、ハレルヤ

前からも後ろからも姿無き声が聞こえてきた。それは祈りの声であり、理不尽な神に縋る言葉。耳を塞いで、声から逃れようとするけど神を求める讃美は止まない。
頭に直接刻み込むように響く声は益々数を増やし、声を大きくなる。声の波が押し寄せて、やがて烏合の衆のようなまばらの声はひとつの声へ形を成す。この列車に乗り合わせた時に聞こえた歌を唄う声とやがては重なった。
嗚呼、なんて酷い。
死者が旅する銀河鉄道。それは後悔と遺志を弔うためにあるのか。しかし、ここには亡霊がいたとしても彼ら乗客は誰もいない。
清々しいほどに鉄道がレールの上を駆ける音や、時折聞こえる他の音しか聞こえない静寂。
窓の外を飽きずに眺める車掌を呼びかけた。「ねえ、」

「ここはどこ」
「かの有名な銀河鉄道さ」
「あんなのただのフィクションだ」

幸せになれなら世界を呪えばいい。そうすれば、責任も怒りも全部全部押しつけて楽になれる。だから、ここにも『ほんとう』は存在しないのだと諦めればいいのだ。
この世に美しいものは存在しない。尊き自己犠牲の美しさは存在しない。あるのは醜いエゴイズムだけ。
だから、と矢継ぎ早に言葉を繰り返す。だから、“ほんとう”を否定してと。ここにはないのだと、こんなものが“ほんとう”ではないと分かるだけでもまだこの世界は救いがあると思える。
だから、と言葉を現実に落とす。

「いいや、ここはほんとうの銀河鉄道だ」

しかし、いつだって現実は無情だ。

「…………うそだ」

と、うわ言のように呟く私の目は窓の外の世界から目を背ける。川のように流れている辺り一面が仄かに赤い銀河。チカチカと赤い粒が幾重にもそこに漂い、尊き赤い世界を創り上げているなんか知らない。
はあと息が膨らむ音がする。嘘っぱちな幻想世界を背景にして車掌は返す。

「嘘じゃない」

だからさ、目を背けるのは止めないか。
ストンと、胸の奥に言葉が落ちてくる。
あ、あ、あ、あ、
どんなに耳を塞ごうが、遮る指の隙間から届いてしまうから厄介なんだ。拒絶しようが、逃げようがお構いなしに届いてしまう。
しかも、その言葉が真実であるように世界が動いているからさらにタチが悪い。正論をつらつらと並べられて、意固地になって屁理屈とのツマラナイ弾丸しか撃てなくなる。だから、怖ろしく思うんだ。
この恐怖は目では見えないもの。付け入る隙がない完璧な恐怖は一度痛感した人間にしか分からない。
でも、それがなんだ。

「いい加減なこと言わないで」

先にいる車掌は思い出の姿と重なるように見えるだけで、この車掌はあの人じゃない。あの人のワケがないんだ。あの人であったらいけない。他人の空似だって、私はまたツマラナイ弾丸をリロードして自分に撃ってやる。この奇妙な列車に乗り合わせる前から、あの瞬間からの変わらない。
変わらないんだ、絶対に。だからこれは、偽物だ。

「いい加減なこと、か。………確かにお前からすればそうだろうな。それにこの瞬間が博士が創り出した実験だと言われても、俺には否定する術がない。でも、今が幻想の実験だとしても俺たちにとって『ここ』は現実なんだ。
目を背けるな。現実から逃げないでくれ」

×××と、車掌が私を呼ぶ。あ、あ、あ、あ、
その声は止めて。その声で私を呼ばないで。無意識に、必死にそらしていた真実から逃げられない。
ずっと堪えていたものが溢れる。

「うるさい………本当に今さら出てきてなに! ならどうして、」

ほら、溢れてしまってもう止まらない。歯止めが効かなくなる。

「どうして、私を置いていったのーーー木吉さん」

車掌の男は、彼は哀しげにしているだけでその表情は言葉にし難いほどに曖昧としたものだった。それは私に対する謝罪故か。それとも後悔故か。彼は「哀しんでいる」だけがハッキリと伝わってくる曖昧な顔をしている。
あなたが哀しそうにしないで。あなたが私を置いていったのに。あなたが。あなたが。あなたが、あんな女の身代わりになったから私はまたひとりになったじゃないか。
銀河を駆ける鉄道はその間も無情に走る。終着駅を、生者と死者を切り離す場所へ向かうために。
ごとごとごとごとごとごと…………別れの音がずっと止まない。




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