嘘つき少女の苦悩

 いつからか覚えてないと言えば嘘となる。この癖、詰まるところ虚勢症(みたいの)が身に染み込んだのは高校からだろう。
 引っ越して、中学の友達どころか知り合いすら皆無な孤立状態となりそうになっていた私は『人と合わせる』との方法で高校での人間関係を乗り越えることができた。でも、それは難なくではなく逆に難ありで。
 さして興味もないバンドのあの曲が良いだの、このドラマ面白いだの、と最近ではみんなの話題に追いつくのに必死でずっと相槌ばかり。やっと追いついたかと思ったら、また次の流行に様変わり。息を吐くのもままならないい話だ。
 疲れた。もう嫌だ、との思いがくすぶり始めた頃だった―――



 授業が終わって、学校が終わって、さて帰るなり部活に行くなり遊びに行くなり各々の予定通りに動き出す。
 かく言う私も次に入っている予定へと動き出していたら、「苗字2」と呼び止められた。

「帰りにさ、クレープ食べに行かない? 雑誌に載ってたあそこの」

 振り返れば、普段仲良くしている女の子グループのリーダー格の子が立っていて、私と彼女を囲むように他のメンバーがいた。
 笑顔で明るく。『好まれている人間』の扱いで、私を誘う彼女にうっと言葉が詰まる。

「ご、ごめん。実は黒子先生にまた頼まれ事されてて……」
「黒子先生? 誰だっけそいつ?」
「現国のだよ。それでいつ帰れるか分かんないし、今日は先行ってて」

 苦笑いを返し彼女らが教室から出ていったとこまで見守り、私は動き出す。向かうは、現国の黒子先生のところだ。


×××



「黒子先生、来ました」

 コンコン。無人であった国語準備室の戸を叩いた。
 ―――いないし。この前もいなかったよね。
 そう毒づきたくなる。帰ってやろうか、と考えたが頼まれは頼まれことだし、やはり待つべきかと思い、国語準備室に居座ることに。
 立っていても疲れるだけだから、前と同じように(なぜかある)ソファーに座り息を吐いた。

「ここで待っとこ。………あー、フカフカでやっぱり良いなあ」

 腹の底から、全身の空気という空気を抜く。ふわふわした気分となって、睡魔が襲ってきた。ピンチ。でも、このままでもいい気が………。
 視界がブラックアウトしていく中、「苗字さん」と透明感がある声で呼ばれた。

「っ、………っあ、黒子先生っ!」
「おはようございます、苗字さん。ずいぶん気持ち良そうでしたね」
「えっ、い、いや、全然違いますからっ!」
「良かったらお茶と茶菓子もどうですか? 今さっき、日本茶を入れたところですから」
「だから、わたしは………って、相変わらず聞き耳持たずで進める……」

 前にも一回、今日みたいに国語準備室までのお使いを言い渡されたことがあった。その時は、無人の国語準備室でソファーで座って待っていたら微睡んでいて気がついたら、お茶の準備をした黒子先生が目の前に。寝てしまったために時間が時間で、このままなにもしないまま帰るのも癪だったら、断らず黒子先生と静なティータイムを過ごしたのは記憶新しいことだ。
 またこの流れか、と息を吐き、年上の男性にしてはなだらかで儚げな印象をつい抱いてしまう黒子先生の背を眺める。
 崩れたところが見たことないポーカーフェイスに、生徒にも丁寧な口調、誰も声をかけられるまで気づけない影の薄さ。そして、穏やかさそうに見えるが本質はきっと違うとか。一生徒のわたしなりに知っている点を、心の中で指折りしながら数える。
 ―――改まってみると、益々不思議な先生。どこか浮世離れしたところとかもあるよね。って、わたしなに考えてるの!? こんなのって、まるでわたしがっ「急に忙しなそうに百面相してどうしました?」

「な、なななんでもありませんっ! わたし時間ないんで、ちゃっちゃっと済ませて帰りますから」
「はあ、そうですね。君はれっきとした女性ですし、あまり夜遅くまでなったら危ないですから」
「っ、そ、そうです、ね。危ないですから」

 れっきとした女性。その言葉に、一瞬心臓が羽上がった。それに合わせて、頬も熱を帯びて熱い。絶対に茹でダコみたいになってる。
 どぎまぎ。どぎまぎ、とぎこちない態度のわたしに比べて黒子先生は相変わらずマイペースと言おうが、いつも通り。カップやお茶が揺れる小さな音と同調するかのように、お淑やかで繊細な声色で「最近やっと授業で漱石の『こころ』に追いついて幸せですね。苗字さんは、漱石好きですか?」と軽い添え物みたいな応酬を繰り返していた。

「好きか、嫌いかは、正直わかりません」
「それはどのような意味ですか?」
「その、………あまり読まないから、です」

 嘘だ。本当は、小学校や中学の時は愛読していた。太宰治も、芥川龍之介も、宮沢賢治も、高村光太郎や谷川俊太郎の詩も。
 でも、高校に上がって周囲の環境ががらりと変わってしまって一緒にいるこの趣味が読書と遠退いていた。ずっと、話に合わせるのに必死で今まで読書に割いていた時間は、話題作りのテレビやアイドル、ケータイ小説や漫画に費やしていたのだ。
 別に、みんなが好きなものが嫌いなわけじゃない。でも、反対に好きにもなれない。苦に、なってきている最近。疲れた、と思うように。
 自然と癖がついてしまった行為にずるずると目線が下がる。過去に好んでいた文学に対しての罪悪感に苛まれて。

「―――では、僕からの課題として一回読んでみて下さい」
「え?」
「だから、僕から苗字さんへの特別課題として近代文学を一冊でも良いから読んでみてもらいます」
「特別課題として………?」
「はい。特別課題と言っても、勝手に評価を上げるなどはできませんけど。ああ、そうですね、課題を一つ終えたらこうしてお茶に誘うって言うのはどうでしょうか?」
「ちょっと、待ってください。どうして、わたしがそんなことしないとダメなんですか」

 また、読めることに関しては嬉しかった。そして、ここでお茶をまた飲めることも。黒子先生が告げた内容は手を上げて喜びたいものだった。
 でも、嬉しいと認めてしまうのは、できない。口が、もう虚勢を張ることに馴れた唇が言ってしまうのだ。違う。嫌だ。ダメ、と。まったく違う言葉を重ねてしまう。
 自分自身の愚かさに嫌気が差して、下唇を噛み締めた。

「一度、手に取って感じてみて下さい。何事も初めは、諦めるより敵陣を攻め落とさんかするぐらいの勢いが大切です」

 ほら、この本とか素敵ですよ。そう告げられ、視線をのろのろと上に上げたら一冊の文庫本が差し出されていた。
 ―――宮沢賢治のシグナルとシグナレス。
 本線の信号機・シグナルと軽便鉄道の小さな腕木式信号機・シグナレスの淡く切ない恋物語で有名な作品だ。
 まだ読んだことがない作品だったけど、シグナルの或る台詞が印象的で、よく学校の司書さん(当時の読書仲間)が口に出していたのを覚えている。

「“ だから僕を愛してください。さあ、僕に愛するって言ってください ”」

 シグナルがシグナレスに告げた愛の囁き。
 夕陽の橙色が溶け込む教室で、告げた黒子先生の表情に息を呑んだ。認めたくないと、騒ぐから心臓が五月蝿いのに決まっている。

「当時の日本文学では、このような『愛する』との表現に前例がありませんでした。どうして、賢治はこのような言い回しを使ったのか。ついでに、この問題を考えるのも宿題です」
「えっと、」
「もう、時間ですから。後片付けは僕がやっておきますので、ではまた明日」
「あ、あの!」
「はい?」
「わたし、まだやるとも言ってません。勝手に進めないでください!」
「やるやらないは苗字さんの自主性に任せます。ただ僕は、境界線で漂っている貴女の背を押してやりたいだけです。先生として、本の虫として、単純に黒子テツヤとして」
「っ、…………暇じゃなかったらやりませんからねっ! わたしは忙しい身なんで」

 先生として、本の虫として、ならまだ耐えれた。耐えてこのまま“シグナルとシグナレス”を突き返すことができた筈。
 ―――でも、あんな表情でしかも『黒子テツヤ』としてだなんて。もう、読まないなんて手が使えなくなる。
 微かにだけ綻んだポーカーフェイス。相変わらず、心臓は五月蝿い。

「……表情読めないし、影薄いし、重度の本の虫とバスケバカだし、勝手に話進めていくし、嫌だ。黒子先生なんて」
「そうですか」



 ほら、そのすべてを受け入れようとしてくれる態度も。まるで、わたしの本質を見抜いているような素振りも。ぜんぶぜんぶ、大っ嫌い!
 ―――ああー、明日も明後日も黒子先生と過ごすなんて最悪っ!!



 企画「平仮名の愛」



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