世界でいちばんやさしいひと

 私が思わなくても氷室辰也たるオトコは不自由しないオトコなのです。これは世間一般にも通用してしまえる衆知の事実で不変の真実でもあります。わざわざメガネをかけた蝶ネクタイの小学生探偵や3代目を継いだ高校生探偵、探偵と言えば彼と言う221Bに住まう探偵に依頼しなくても解けてしまう謎。いや謎にもならないことでしょう。
 なぜ彼がそうだと私が自信をもっているのはなにも自分自身の直感で、と言うことじゃないのをまず話の初めに置きます。これをスタートラインとしてお次は彼の外面を思い浮かべてみましょう。心酔する色香を孕んだ艶な声。甘ったるい綺麗な顔。バランスがとれた美しい体格。非の打ち所がないのは確かですね。外面を堪能した後は内面です。帰国子女故か元から性質か女性に優しい紳士、英語ならジェントルマン。人形のような背筋が凍るほど綺麗な容姿に反した気さくさ。でも外はクール。だが中はホット。ハワイのなんとか山のマグマにも負けないホット、ホットだ。うかうかしているといつの間にかお熱になっている乙女もたくさんできしまうわけで。
 もう私の説明はゴール間近となるが彼――氷室辰也――がどうして不自由しないオトコなのかご理解いただけたでしょうか? いただけたなら幸い。あなたは最後まで懸命に駆けたランナーです。いただけないならその人は私と第2ラウンドの鐘が鳴るのをわずかに待ちましょう。大丈夫です、もうじき鳴るので。
 …………ずいぶん私が語る氷室辰也はヨクデキタ人間と仰りますか。面白い意見ですね。空想には興味ない。私はリアリストなの。そんなご都合主義の少女漫画みたいな王子様が不条理な現実に存在するわけない、と。言いますね、言いますね。確かにそんな白馬の王子様がご都合にお花畑に現れてヒロインを幸せへさらっていくなんて、ヘドが出るほどあり得ません。可笑しいぐらいに。笑っちゃいますよまったく。
 氷室辰也にも決定的なる欠点があるはず。正解ですよ、大正解。探偵真っ青な素晴らしい推理です。いやあ、たまげたよ。見事正解した参加者には賞品を渡しましょう。実はですね、あるのですよ彼にも――氷室辰也にも欠点が。
 いくら素晴らしいことを並べても彼かて所詮は人間。美しさに固執して己の醜さが見えなくした愚かな遺伝子が身にあるのです。いやいや、愚かさを愛さないとなりませんよ。愚かさを愛しさに変換して慈しむのです! ありとあらゆる万有を愛する聖母マリアを氷室辰也は求めているのです。なに不自由しないオトコが唯一不自由する矛盾とした存在。憧れませんか? 燻りませんか? 疼きませんか? 痺れませんか? 身悶えしませんか? 興奮しませんか? なりたいと思いませんか?
 氷室辰也との美しくも愚かなオトコの唯一のイブになりたくありませんか?


 陽泉高校はカトリックを信仰している。日曜日の朝からミサだって行われる校内にある聖堂のステンドグラスは今日も美しい。ステンドグラスに描かれているのはカトリックの聖堂に差して珍しくもないものだ。キリストの母で、天使から受胎告知を受けた無原罪の女――マリア。マリアは今日も万有を慈しむ笑みを浮かべいる。そして、私は今日も失敗した。

「今日の彼女はあなたが気に入ると思ったのになあ。前に脳内スイーツの処女は嫌いって言ってたから、原罪まみれてそうな俗物リアリストにしたけどダメだったかー」

 あなたを王子様と見なかったからイケると思ったけど早合点だった。いやあ、私もまだまだダメっすね。今回の反省はちゃんと次回に生かさないと。そうじゃないと今回に費やした時間や諸々がパアになる。
 木の長椅子に腰掛け正面のステンドグラスを1点を見詰める彼は私の話など気にも留めていない。興味がない。親切なほどに分かりやすい拒絶だ。しかし、それに気づいて動く口を止める私ではない。それは私じゃないから。
 後ろからマリアと彼を眺めながら私は口を開いた。

「ねえ、嫌だ嫌だと文句ばかり言うならあなたが本当に欲しいマリアが誰か教えてよ」

 ねえねえ、と幾度か彼の肩を揺すったら彼がやっと私のほうへ振り返る。私を映す双眸はたくさんの悲しみが星屑のように散りばめられていた。もしくは溺れてしまうほど深い悲しみの海が広がっていた。何度もこの彼の瞳を見て私は思う。ああ、はやく。もっとはやくあなたは救ってあげる。汚れてしまった悲しみを綺麗にする人を連れてきてあげるからと。
 悲しみの瞳を細め、彼は綺麗に微笑む。

「貴女は、世界でいちばんわるいひとだ」


 変身 より



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