「やっと、君のもとに行ける……」
夜明け。夜の住人である彼ら――<吸血鬼>に対して天敵に当たる陽が昇る曙の時。不思議な色彩に包まれた空はその一瞬だけ抗うかのように暗さを射した後に、明るい朝が連れてこられる。夜明けの景色を神の目覚めと崇める先人らの血を引く私たちも神がどうのこうのと崇めることこそ廃れたが夜明けの景色が神秘的だと感じることはあった。
彼は、吸血鬼故に永年神秘的な景色を目に焼きつけることがなかった。だが今日、文字どおり彼は目に『焼き』つける。まだ見える左目と共にその身を焼き焦がして。
昇る陽に当てられ今まで幻術で欺いていた皮膚は彼の限界を見せつける。髪も同様だった。女の身である私も羨む艶やかな黒髪がみるみるうちに灰へ成り果ててゆく。
あの麗しい彼の姿は過去の面影を消し、徐々に醜い灰へと化していた。醜い、か。誰がどう見てもあの麗しい彼と比較したら今の彼は醜いと罵声が出てしまうものだろう。しかし、彼は“彼女”だけは別だと信じている。いや、信じているなんて生ぬるい。それが当然だと断言するほどに思っているのだ。遠い。ああ、遠いものだ。7年のしかも種別の越えられない壁がある私にはほど遠い存在。
“彼女”とは彼の最愛の人であった。
また耳に馴染まない名前を彼が口にしている。ほぼ“彼女”の名で間違いないだろう。
吸血鬼と化して血を飲まなければ生きていけない生き物となったに関わらず“彼女”の死後、彼の身体は彼女以外の血を口にしなかった。
心身を、彼は“彼女”に捧げたのだ。
「 」
ああ、またもや“彼女”の名を呼んでいる。あなたの目の前にいるのは私なのに。
干からびた吸血鬼の生涯が終わろうとしていた。
◇◆◇◆◇
命が尽きる音が、聞こえる。
「なかないで」
病に犯されている彼女の灯火はもう弱い。ふっと息を吹きかければ今にでも消えそうだ。しかし、彼女はそんなことないと気丈に振る舞っている。今もこうして泣くだけの俺に微笑みかけていた。
彼女と出逢ったのは、ある雨の夜明け。夜が明けて、降り続けていた雨が上がろうとしていたその時だ。「あのときみたいに、ほほぬれてる」
「 、」
「走馬灯っていうのかな。辰也とのおもいだすの」
「…………」
「楽しかったなあ。いろんなとこいったよね」
「これからも一緒に行こうよ」
やっと声が出た。君の全身を巡る血をすべて飲み干した後、吸血鬼である俺の血を与えさえすれば俺と君は永遠の時を生きられる。そうすれば、今まで以上に一緒に色々な場所が見れるんだ。でも、君は「だめ。それはだめだよ辰也」
君はYesと首を縦に振ってくれない。
「わたしは人のまま終わりたいの。このわがままだけはゆずれないから」
「死ぬのが、怖くないのかい?」
「こわ、いかな。でもね、だめ。ねえ、辰也ちょっとおねがいしていいかな」
涙で濡れた頬を挟み、君は微笑む。そして『おねがい』を俺に告げた。内容を聞いて、相変わらずだと苦笑をもらした。呆れたとも言える。
俺の反応を見て、してやったりと君は楽しそうに笑った。まるで悪戯に成功した子供のように無邪気に。
やっぱり、敵わないか。いつだって俺は君に敵うことができなかった。
「ああ、分かった」
「ありがとう、辰也」
君と契った約束を果たそう。この身が枯れるその時まで。
君の『おねがい』を守るために、俺は後ろ髪引っ張られる思いで君がいる部屋から出て行った。これが、朝陽を浴びて灰となり逝く干からびた吸血鬼の始まりとなる。
永き時の結びが始まった。それは実に、夜明けをじっくりと待つ黄昏のようだ。
◆◇◆◇◆
目の前では、彼が彼なのかと疑わしいほどに成り果てた彼が朝陽に向かって手を伸ばしていた。愛おしそうに。
「朝陽って、こんなに綺麗だったんだね」
と、最後に私の名を彼は呼んだ。「え」思わず目を張った。
彼―――吸血鬼のずっと彼女に向いていた意識がこちらに向いていた。そのことに純粋に驚いたのだ。だって、彼の目には彼女しか映っていないはずなのに。表面に出てしまうほどに狼狽える私を彼は柔らかい笑みを浮かべ、
「朝陽を見せてくれて、ありがとう」
夜明けの朝陽に、吸血鬼の身体はちりちりと灰と化した。ついに本当に夜明けが訪れた証拠だ。
風に誘われ舞う灰に私は一言告げた。
「安らかに、吸血鬼さん」
干からびた吸血鬼に、最初の手向けの言葉であった。
企画「赤を食む魔物」