プロシアの青を飲み干す


 保健室を訪れたのは、そうただサボりたかったから。
 そう、言い訳を心の中で唱えベッドで静かに眠る彼女の寝顔を見詰める。
 底が浅い酸素を吸い込む淡い色の唇。白磁の如く白い肌。舐めたら甘いキャラメル色のショートカット。吸う吐くの単純作業を行う度に動く男としてはもう少し欲しい女として乏しい胸。すらりと伸びた四肢。
 好みのタイプではない。食指の動かされないお子さま。
 しかし、保健室のベッドに眠る彼女を不覚にも美味しそうだ、と内に巣くう獣ががるるっと訴える。
 普段からあまりその獣を躾た覚えがなかったことが転じたのか、狐憑きに会ったように身体が勝手に動き出した。
 淡い色の唇の縁を親指でなぞる。
 ここで、噛みついたらどうなるのだろうか?
 疼く好奇心から顔を近づけようとしたら、彼女の手が顔に当たった。
 君って寝相が悪かったんだね。力が弱かったから殴られる域まで到達しなかったが、まあ当たったは当たったので痛いは痛いものだ。
 無防備だと思っていたが、思いの外難攻不落らしい。いや、別に落とそうとしている訳ではないが。
 だが、この淡色の林檎を食するのは無理との現状は変わらない。
 林檎を食べたければ、そそのかす蛇の言葉を聞いて楽園の園を追放されないとならないのか。
 ぼおっと旧約聖書に書かれた有名的なアダムとイブの神話を思い出す。
 手を出さなかったら、永遠にイブは痛みも苦しみ辛さも知らず生きてこれたのに。
 愚かだな、と以前の郁なら笑っていたかも知れない。
 わざわざ茨の道を裸足で歩む必要がどこにある。
 そう嘲笑っていた過去の郁に今現在教え子である生徒の寝込みで悪戯する郁を見せたら、どうなるだろうか?
 他人事のように嘲りを孕んだ笑みを浮かべるか。はたまた、面白いと物見世を観るように愉快に嗤うか。
 どちらにせよ、未来の自身を嗤うことには変わりないらしい。

「こんな、筈もないと思ってたけどね」

 人生とは予測不可能で不可思議なもの。
 予定通りにことが進むと思えば、斜め45度行くこともしばしば。まさしく、今のことだが。

「あーあ。僕って、こんな人間だっけ?」

 今は眠っているが、起きている間は十分姦しく郁の日常を話し声で満たすお喋りな子を、まさか。
 姉みたいな大人しめな子がタイプだったような気がする。やはり、今の自分はどこかおかしいみたいだ。
 大学の友人が以前にどこかヨーロッパの国に旅行したらしくお土産で飲んだ林檎酒の味を思い出した。
 甘ったるく狂おうように酔わす蠱惑な味。
 一応勤務中だから林檎酒どころか酒の一つも口に含んでいないに関わらず、どうしてか蠱惑な味に溺れていた時のような状態になっている。あらまあ、不可思議なことだ。
 砂糖とはまた違った甘さにとろけそうな頭は、郁の手に彼女の手を取れ、と命ずる。
 そして、妙な浮遊感に襲われた頭はまた新たに命じた。

 
―――食べてしまえ、と。


 なめらかと予想していたが、乾燥肌であったのかわずかにザラザラな肌を甘噛みする。
 関係ないかも知れないが寝相が悪い彼女でもさすがに、起きてしまうだろう。
 とりあえず、目覚まして一発食らうのかな。嫌だなあ。
 そんなことを、思いながら彼女が目を醒ますまで刹那の間。
 やっぱりそうだった、甘ったるく狂おうように酔わす蠱惑な甘みに溺れておこうか。


 リリトちゃんとギヨくん より



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