ある思想家の墜落 | ナノ


 よし、掴んでみよう。いや、できない、それでも、まだ見えている。
おそろしい短剣の幻よ、おまえは目には 見えるが、手に取ることはできないのか?
 ―――シェイクスピア 『マクベス』



「おかしいな」

 ベッドサイドにもテーブルにも、そしてリビングにもそれはなかった。試しにスーツのポケットを触れて叩いてみるがない。昨日、今日の会議について電話したから家にあることは確実だが………どこにあるかが記憶ない。終わった後にビール飲んで即寝たからなあ。覚えていないのも無理はないだろう。
 だが、まあ仕方ないで済ませられる簡単な代物ではない。はっきり今日1日でもなかったら不便利だ。すっかり依存症まで蔓延しているほどに、現代人はそれなくして生きれないようになっている。あー、どうするか。背水の陣まで追い込まれてしまった。

「朝食まだかとツバキとアズサ鳴いてますよ」
「さっきからうるさいと思ったらメシの所望か。すまん、もう少し待ってくれ」
「何かあったのですか?」

 杏の黒々とした瞳に困り顔の俺が映る。ため息をひとつ吐き出して、頬を掻いた調子でぼそりと呟いた。

「ケータイをだな、なくしたんだ」

 現代人には必須アイテム、携帯電話。近代の技術開発は目まぐるしくよりスリムでコンパクト、そして従来のキータッチタイプではなく液晶画面にタッチするスマホが流通している。件のスマホをこの家でなくしてしまったのだ。
 朝起きてからどこにあるのかと探し回ったが一向にみつからないとくるのだから辛い。ケータイ探しで潰した今の時間帯は悠々とテレビを眺めながら朝食を猫らと一緒にとっている時間帯だろうに。天気予報とか見逃したなあーと思い返す。しくじったと思っていたら「ちゃんと探したのですか?」と聞かれた。 ムッとした思いが込み上げたが圧し殺し、

「探したさ」
「本当に?」
「ああ」
「ふーん」

 自信満々に答えたら、杏は納得してませんと書いた顔つきに変わり俺の寝室を軽く探し回った。ベッドサイドにテーブルの下、そしてベッドの下も―――「ありましたよ」なかった、いやえっ?
 ないないと信じ込んでいた俺の目にはちゃんとスマホが映り込んでいる。俺のスマホだ。ああ、良かった。これで大丈夫だ。安堵して張っていた気が緩む。

「ありがとうな。でも俺もベッドの下見て、ないと思ったが」
「思い込み、してたのじゃないですか」
「思い込み、か」
「ええ、人間こうだって脳がそうインプットしたら中々剥がれませんからね。他人なに言われたって変えない人とかそんな感じですよ」
「あー、いるなそんな頑固な人」
「いますいます。棗さんだって『ない』と思い込んだから見えていたのに脳が見てないフリしたのです」
「ふーん、そう言われたらあんがい日常生活に多々あるよな」

 スマホも無事見つかったことだし朝食にするか、とリビングに足を向かわせたら杏が喜びを表す声をあげた。お前もよっぽど空いてかのか。どうやらウチの同居人らはみな腹ペコだったようだ。




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