ある思想家の墜落 | ナノ


私は運命の喉首を締め上げてやるのだ。決して運命に圧倒されないぞ。
 この人生を千倍も生きたなら、どんなに素敵だろう。
 ―――ベートーヴェン



 杏が来てもうすこしで1週間が経ちそうだ。時はずいぶんと短いもので、仕事に勤しみ一緒にいる時間が取り分け少ない故か「短い」感覚がよりいっそう身に刻まれるようだった。
  突然現れた少女はまだ俺の前にいる。

「お前って普段はなにしてるんだ?」

 あずさとつばきと戯れている杏に思い切って訊ねてみた。普段、とは当然俺が仕事に行っている時間帯を指す。
 あいつは俺の問いに、まばたき2回にうーんと悩む時間を要してやっと答えた。「ごろごろしてます」
 なんだそれは。

「学校もないですからね。それにアッチのゴタゴタが片付くのに差ほど日もない。だからバイトするわけにもいかないでしょう」
「だから、ごろごろしてるって」
「はい」

 つばきの手をとって返事する杏に「とんだ頼まれものを拾ったわけだ 」と呻く。
 一大企業の女性社長。キャリアウーマンとの現代だからこそ生まれた言葉ぴったりの母親から頼まれた(らしい)セーラー服の少女の素性を俺は知らない。母親に確認をとろうにもお互い忙しい………てか、母親が忙殺されそうな身だから中々捕まえることができないでいたのだ。なら、「他の兄弟を頼れば?」と考えたものだが向こうから連絡がない以上他の兄弟も杏が知らないと言うことだと思い、相談するのは止めた。
 他の兄弟に相談したくない理由はそれ以外にもあるが、今は割愛しよう。しかし、あえてだけ言葉を残すとしたら『三つ子のやつ』の存在があるからと言っておく。
 身元不明でその他の詳細不明。持っていたのは自身が着ていたセーラー服のみ。明らかに家出したような出で立ちの少女を俺は警察に突き出そうと思ってなかった。むしろ、流れるように、家に置く行為が当たり前だとさえ思っている。
 いや、本当に。
 もう家に置いてから数日。今から、家を追い出して警察に明け渡すなり母親に送り返すなどしようと考えるほど俺は非道になれそうにない。とりあえず、母親がこいつのゴタゴタが終わるまで俺の家にいろと言っていて、それを頼ってきたなら家に置いてやるしかないだろう。そっから進んだことはいずれ母親を交えて話すしかないから。

「理由は分かったが、ただごろごろとして時間を潰すのはよくない。俺の家にいる以上は仕事をしてもらう必要がある」
「あずさとつばきはどんな仕事を?」
「主に俺のストレス発散と近所の新密度を上げる仕事?」
「はーい、それなら私もやってまーす」
「被ってるから却下」
「えー、そんなぁ」

 確かに杏の頭の撫で心地は良いし、最近近所からも「つばきちゃんとあずさちゃんに新しい娘とで戯れてる姿見てたら、和んだわ」と嬉しい定評をもらっている。
 だが、それはさっきも言ったが既にあずさとつばきが担ってる仕事だ。

「家事とかできないのか、お前」
「ムリです、ムリです。私超絶不器用で」
「………試しにやらせてみるか」
「ムリですムリです!」

 むしろそこまで否定するならみてみたい。まるで、開けるなと言われると開けたくなるみたいな感覚と似た気持ちとなり杏にあらかたの家事をやらせてみた。



 ………………………………………結果は、「俺が間違っていた」であった。

「ほら、ムリですって言ったのにー」
「分かった、本当に俺が悪かった」

 地獄を見たような気分だ。
 どちらかと言えば器用ではない俺が真っ青な表情を浮かべるほどの腕前であった。もしこれが京兄の前で行われていたら………と考えると恐ろしい限りだ。
 広がった地獄の片付けを一通り済まして、ついでに作った晩飯を箸を突っつきながら再び杏の仕事をどうするか話す。うん、味噌汁上手くなったな俺。

「はあ、しばらくはなにもしないで良いよお前は」
「はーい」

 大人しくごろごろしてます、今まで通りに。
 辛辣な杏の言葉が刺さる。




「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -