ある思想家の墜落 | ナノ


 我々人間の特色は神の決して犯さない過失を犯すということ。
 ―――芥川龍之介



 こいつは今なんと言った?

「すまん、もう1回言ってくれ」
「『実は加浦杏って偽名なのですよ』」
「……………」

 やっぱり、聞き間違いとかではなく実際に聞いた通りであった。
 どうしてこいつはいつもいつもこんな………。はああと深くて重いため息が口からこぼれる。煩わしげにきつく締めていたネクタイを緩め、第一ボタンを空けて「それを聞かされた俺はどう反応をとれば良いんだ」と吐き出した。
 杏のやつは愉快そうに笑いながら、

「たいてい、『どうして偽名で名乗ったんだー!』って怒るものじゃないですか」
「怒りよりも呆れの方が多い」
「なら『どうして偽名を使ったんだ!?』って迫るのはどうでしょうか」
「お前が偽名で名乗った理由に興味ない」
「え〜、詰まらないですねぇ」
「詰まらなくて結構。別に今さら本名を明かせとか訊かないから安心しろ」
「……………」
「俺が知っているお前は杏加浦以外の何者でもないからな」
「………やっぱり、棗さんには敵わないなあ、私」

 一瞬、俺の言葉に呆気にとられたように呆然とした後にふにゃりといつも貼りつけている顔と違った笑みを浮かべた杏。そんな風に笑う少女にどんな環境が取り巻いているなんて俺は知らないしきっと知ることは許されないのだろう。だけど、この公園でこうやって2人であっている限りは俺はこのセーラー服の少女に干渉できる。
 頭を撫でた、決して真実を見せない少女の頭を。そして優しく諭すように聞こえる声色で伝える。

「当たり前だろ。子供が大人に敵うなんてもう少し成長してから言え、生意気だぞ」

 口ではこんな風に大人を装えるぐらいに年を食った。が、本当に『生意気』との言葉が似合うほどに杏の行動ひとつひとつに俺は振り回されていた。まあ、後になったらそれに付き合うのも悪くないなって俺の中で馴染んでいたけど。
 1番末っ子の弥や絵麻の頭を撫でるように杏を撫でていると、彼女は「私、棗さんに撫でてもらえるの好きなのですよ」と言った。その言葉が嬉しくて、俺はもっと杏の頭を撫でた。
 本当は、辛いことがあるなら吐いてくれたって構わないんだぞとか俺は大人だしお前が困ってたら助けてやれるとか言ってやりたかった。夜な夜なセーラー服をはためかせる少女の手をこちらに引っ張ってやりたかった。―――お前がいるそこから連れ出してやりたい、と思っていた。
 しかし、それは後悔の念だけで止まる。一時停止もなく終わりだった、そこで。


 猫が鳴く。人が叫ぶ。夜の藍にネオンの光、信号の青に赤、赤赤赤。また、猫が鳴いた。


 “買ってもらったおにぎり代お返ししますね”
 “明日からしばらく公園に来れそうにないので、ちゃんとお家で休んでください”
 “棗さんカッコよくて優しいから素敵な人見つけて幸せになろうとか思わないのですか?”

 今思い返せば、杏の行動は色々と不自然な点だらけだった。どうして俺はその時点で、ちゃんと気づいてあげられなかったのだろう。もし、気づけていたら………杏は――――「女の子が轢かれたぞッッッ!」

「……………」

 嫌な気がしたんだ、無性に。刺されるように、背中に突き刺さった悪寒が拭えないから。いや、半分はほぼ毎晩のように足蹴よく通っていたから自然と足が向かっているのもあった。
 でも、嫌な気はずっとしていた。
 昨日に告げられた言葉のすべてが、別れの言葉に聞こえて仕方なかったんだ。
 不安を払拭をしたかった。ほら、ただの杞憂だって安心したかった。誰もいない人寂しい公園を目に収めて、家帰って、つばきとあずさに餌やって、ビール飲んで、風呂入って、寝て、朝になったら起きて、またいつか気が向いた時に公園を訪れたら猫を抱えたセーラー服の少女に会えるんだって―――――願っていた。


 猫が、鳴いた。真っ赤な猫が鳴いた。


「………お前、あいつと一緒にいた猫、か」
「行くとこ………あるわけないか」
「なら、俺のとこ来るか」




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