ある思想家の墜落 | ナノ


 人に欺かれるのではけっしてない、自分で己れを欺くのである。
 ―――ゲーテ



 杏がこの家のどこにもいない。
 起きた家主を迎えるように2匹と1人はリビングにいるのがこの家の朝の風景みたいなものだった。だが朝リビングにいたのは餌をねだるつばきとあずさだけ。セーラー服の少女の姿はどこにもなかった。
 もう出て行ったのかと思ったが、置き手紙もなにもなく一応預かっていた側の人間なワケで確認の1つでも取るべきか考える。しかし杏のケータイ番号もどこに帰るのかも―――なにもかも知らない。唯一知っていると言えばあの母親があえて俺に寄越してきた、と俺側の事情のみ。
 とりあえず、うだうだしていても時間の無駄だ。母親に電話とメールを残して、1人いない朝食をとる。そして、つばきとあずさに「行ってきます」と告げるとミーミーと1人少ない見送りを受けて俺は会社へ向かった。
 杏のやつ、どこに行ったんだ。



 会社で凝りがとれないまま仕事をして昼休み、スマホを見ると母親から連絡があった。1日でちゃんと繋がってしかも返信が返ってくるなんて珍しい。いや、珍し過ぎる。明日どころか今すぐにでも槍が降ってくるのではないだろうかと疑ってしまう。
 終いには本当に母親からの返信なのかさえ疑ってしまったが、堂々巡りのままでは昼休みが終わる。まだ昼も買いに行ってないのだ。今朝は杏のせいで作りそびれてしまった。ふと思い出すと、最近我が家に転がり込んできたセーラー服の少女は色々と振り回してきたものだと思った。杏のワケの分からない気まぐれに付き合ってしまい遅刻しかけたことなどしばしばある。今日だってそうだ。
 1人分少ない飯のねだり声。1人分少ない朝食。1人分少ない見送り。家を出るときにも感じた喪失感がここに来てぶありと噴き溢れてくる。―――でも、杏は今朝に姿を消した。その意味は俺の中で重くのしかかる。
 アイツ的にはそっちのほうが真っ当なのだと、自分に言い聞かせ母親からの返信を開いた。



 時刻はもう12時半前。急いで昼を用意して食べないと、昼休みが明けた時刻から始まる別室でのミーティングに間に合わない。なのに、俺は1階にあるコンビニへ向かおうとしなかった。ただずっと真っ暗になったスマホの画面を見詰めていた。


 ―――それは誰の話?


 母親からの返信は1文のみ。しかし、その1文だけでも俺を強く揺さぶった。
 結構突拍子なことをいつも仕出かす母親だ。だが、嘘は吐かない母親でもあった。チッチッチッと秒針は刻々と時を過ごしてゆく。呼吸すら躊躇われる空白に音が乱舞した。
 ブルルルル、ブルルルル。手のひらにおさまっているスマホが震えている。点滅する赤に画面は着信が来たを訴えていた。相手はこの前家に来た義理の妹からだ。
 たぶん俺は通話と表示されているとこを押したのだろう。枠にハマったような当たり前の動き―――電話が来たから俺はスマホを耳に当てた。ああ、なんだこれ。

「もしもし」
『あっ、棗さんこんにちは』

 機械越しに届いた声はわかいわかい少女のもので頭を掠めるセーラー服の少女とは違った明るさをひそめていた。
 ちょうど良いか。礼儀云々言うのであれば電話をかけてきた義理の妹の用件を優先して聞かねばならないが、こちらは一刻を争う。実はですね、とそっちの話題に移る前に俺は単刀直入に訊いた。
 ―――杏が消えた、と。

『えっ、杏ちゃんいなくなっちゃったのですか!? 届けとか出しました?』
「いや、まだ出してない。あいつは預かってるヤツだからもしかしたら帰ったのかと思って」
『確かにそれもありますね。確認はとりましたか?』
「いや、まだ繋がらないからとれていない」

 義理の妹には、とっさに嘘をついてしまった。あいつから聞かされた事情が嘘だったのが、真実だ。
 そんな背景など当然知らない義理の妹は『そうですか』と憂いを含んだ声で明るさを覆い消した。

『事故とか合ったら怖いですよね』

 事故、とのワードにどこか引っかかるつっかえが頭のなかにあった。だがそのつっかえはすぐに砂となる。
 さらさらとする頭で「いや、まあ事故の心配もあるがさすがにあの年だから大丈夫じゃ…………でもないか」と思う。しかし、義理の妹の杏への心配は俺のと少し違うような感じがした。それがどこかは分からないが。
 違和感を感じながら話を進めると、その答えはコロンと呆気なく俺の前へ転がってきた。現実は戯れるように無垢で残酷だ。

『最近、こちらの家の近所やっぱり事故多いですよ』
「………ずいぶん物騒になったな」
『ええ、本当に多いですよ―――猫の轢き死体が』

 え?

『やっぱり車の往来が激しいですからね、最近。年末ですし道路工事や整備とかで交通不可が出て通りにくくなってるせいでしょうかね』

 義理の妹は何を心配しているんだ、いったい。猫の話じゃなくて加浦杏との“人間”の話をしているはず。はずなんだ、確かに。だが、いや、おかしい。いや違う。違う! 違うんだ、義理の妹と俺の話は始めっから食い違っていたのだろうか。震える声を出す。「なあ、どうして猫の話なんだ?」
 俺たちが話しているのは、加浦杏との“人間”だよな。

『え、だって杏ちゃん猫じゃないですか』

 昨日の朝、雨は果たしてちゃんと降っていただろうかと真っ白に頭にひとつの疑問の色が色濃く滴った。えらく唐突な話だと冷めた俺が呆れた目で見ているが構わない。それを確かめないといけないのだ。

なあ、昨日の朝は雨が降り続けていたか?

 真実を知る前に俺の意識は暗い深海に沈んでいった。




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