ある思想家の墜落 | ナノ


 現実は夢を壊すことがある。
だったら夢が現実をぶち壊したっていいではないか?
 ―――ジョージ・ムーア



 ―――おおきな、大きなあくびが出た。

「先輩、寝不足ですかー?」
「いや、昨日はちゃんと寝たけどな」
「いつ?」
「たぶん日は跨いが2時までには寝た。そんで朝6時前に起床」
「社会人が4時間も寝れたら上々ですね」
「そうだな」

 ずーずーと麺を啜る音があっちやこっちやがやがやと聞こえてくる。女好きで定評のある後輩が珍しく男である俺を昼食に誘ったことは驚いたが、このような品性や礼儀の良さなど放り投げた店――まだグルメ雑誌にも載ってない秘店のラーメン屋――に来た瞬間納得した。ああ、下見と様子見か。と、俺は頷いた。
 まあ、こいつはこんなヤツだったと再認識した俺と再認識された後輩でとあるラーメン屋に入ると店内は見事にスーツ姿のサラリーマンが多くを占めていた。あとはおまけ程度に大学生がちらほらと。中々繁盛していて、後輩曰く知り合いからオススメされたから今度女の子誘うにどうかと下見に来たんスよ、との言葉がなければ良かったが。まあ、元からこんな後輩だったから気にするほど無駄かと納得させる。

「そう言えば、朝比奈先輩って昨日昼から来てましたけど寝坊でもしたのですか?」
「断じて違うぞ。病院だよ。診察の予定入れてたの忘れてて昨日朝ビビった。急いで会社に遅れるって連絡して用意してと………はあ」
「それはお疲れ様でしたねー」
「まあ、どちらも間に合ったから良かったけどな」

 診察を入れていた病院は会社へ行く方向にあるはあるがギリギリな辺りで外れた位置にあるのだ。予約はできないし朝早くから受付で待たないとならないからさらに面倒。急いであずさとつばきの、そして杏の朝食を用意して自分の身支度も同時に済ませるとのハイレベルな同時進行を行った後は通勤ラッシュの電車で心身共に揉みくちゃに。日本の根幹を担うサラリーマンは本当に大変だ。
 今思い出すだけでも溜め息がこぼれる。「あ、朝比奈先輩幸せがひとつ逃げましたね」女子みたいなことをほざく後輩は無視だ、無視。こういった扱いに馴れている後輩は毛ほど気にしない態度で次の話題に移していた。「知ってます、先輩。営業部の信田さん、つい最近辞めたんスよ」

「信田さん?」
「え、もしかしてそこからですかー。営業部一美人の信田美那江さんですよ! ちなみに信田さんのメアドゲットしてましたよ」
「ふーん、知らないな」
「ホントに朝比奈先輩って………。まあいいや知らないほうが返って好都合。で、その辞めた美人の信田さんの退職理由が面白いんですよ」
「面白いって?」
「営業部の子から聞いた話じゃ、精神を病んだためとか」

 それが『面白い』と言えるのか。胡乱な目で後輩を見ると、つかさず後輩は慌てて「いや、それが『面白いとこ』じゃないですよ!」と否定した。

「どうして精神を病んでしまったかがキーなんスよ」

 人差し指を立たせ、まるで名探偵さながら大袈裟なパフォーマンスが始まった。正直、話の殆どを俺は聞き流してラーメンが伸びる前にと食べていた。つまり食べることに夢中になって熱心に語る後輩の話など聞いてなかったって言うことだ。
 ああだこうだと長々しい語りの間にちょくちょく自分の話や関係ない話が介入して、お前は話がよく飛ぶ女子か!とのツッコミを我慢した。その対価として食べることに集中しても恨みっこなしだ。



「つまり、信田さんは有りしもない幻想に取り憑かれて彼氏を殴ったり蹴ったり物を投げたり凶行に走ったワケですよ」
「………」
「せんぱーい、聞いてます?」
「ああ、聞いてたぞ」
「じゃあ良いっす。それでですね、まあ後日落ち着いた隙を見計らって精神科に連れていったら見事に精神異常者と診察されたっていうオチです」
「で、それのどこが『面白い』話だ。ただの後味が悪い話だろう」
「えー、別に愉快とかその『面白い』話じゃないですよー。ただ興味がわく『面白い』話だなーって」
「興味?」

 話ながら啜るとのマナーの悪い後輩のどんぶりがスープのみとなり、箸で残りの具やら縮れた麺を探す後輩の目が聞き手の俺に向く。

「どうして、彼女はそこまで狂ってしまったのか気になるんですよ」

 狂ってしまった、との言葉の氷が心臓に突き刺さった。傷口からはぐぢゅぐぢゅな赤がたばたばと出てくる。ひゅうひゅう。酸素や二酸化炭素が喉にべとりと貼りつく。ぐわんぐわんと鈍るせかいの遠くでなにかが壊れた音がした。あっ、あっああ「先輩?」
 刹那、ぐにゃりと曲がった不気味な世界は消えていた。「わ、りい、ぼーとしてた」「もしかして白昼夢ですかー。ホントに先輩ちゃんと寝てます?」「ああ、寝てる。てか、寝るから今夜」「そうしてくださいね、ホントに」軽い調子だが俺への気遣いの色を見せる後輩の声がじんわりと脳に溶けていった。





 2人共食べ終わってそろそろ店を出るかとした際に後輩が思い出したみたいな声で「先輩」と呼んだ。

「そう言えば今朝からずっとみんな気になってましたけど、その頬の怪我どうしたんですか?」

 トントンと軽やかなタッチ叩く左頬に俺はああと声を出し、

「妄想に取り憑かれたヤツにやられたんだよ」
「なんすかそれ」
「寝惚けてやられただけだ、同居人に」

 妄想は妄想でも、妄想が編み出した夢の住人だけどな。




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