毒と知りながら僕はそれを喰らおう 「っふ、ぅ…っ…」 お互いが、必死に相手の酸素を貪り合うキスは、脳髄を溶かしていくようで。壁際に押し付けた金髪が擦れて、それでも構わずに舌を深く絡めていく。 もどかしい、子供のような手つきで艶やかな黒髪がまさぐられた。相手の図体の割りに、それほどの身長差を感じない。 場所が教室であるという背徳感から、更に二人の息は荒くなっていく。 「―…っは、も…しつこ…」 「シズちゃんがいけないんだよ…っ…」 その文句の割りに抵抗は殆ど無かった。相手にどれ程効果があるかは知れないが、ありったけの力で両手首を掴んで壁に押し付ける。机の上に座ったままの相手を、その机ごと壁に追い込んで身長差を忘れさせた。 本来ならば、愛を確かめ合う優しい行為であるはずのそれは、ただ欲に溺れただけの虚しい行為として行われていた。お互い愛し合っている訳ではない。ましてや憎み合っている仲だと謂うのに、どうしてこうなったのか、自分でも解らなかった。 完全に抵抗を無くした静雄の上にのし掛かり、壁に押し付けたままの手首を労る様に撫でる。それに身を捩らせて逃げようとしたのを、相手の額に手を宛てて、その双眸をじっと見詰めて制した。 「……なぁ、臨也…」 「…なに?」 生理的な涙で潤んだ瞳を揺らしながら、しかし何処か決意めいた色を秘めたその声に臨也は応える。その間にも、何の感情も籠めていない筈の手つきで、額に宛てていた右手をずらし頬を指先で撫でてやった。 「………何で…俺にこんな事するんだ…?」 ――ちくり 世界が止まる。 どうして……? どうして、だろう。 「――…どうだっていいだろ?」 そう言って、俺は誤魔化した。 あれから、静雄は臨也を避ける様になった。あの行為が初めてだったからだとか、そう言う理由では無いと思った。同じような事は過去に何度もしていたし、その度に避けられるような事も無かったから。 だが、 あの『質問』だけは、 初めてだった。 きっと、いつかは向き合わなければならない事だと初めから気づいていた。けれど、ずっと先送りにしていた、ずっと後回しにしていた、その根本的な『行為の理由』を考えるという事が、お互いにとってこんなにも辛くて、耐え難い現実を突き付けるものだとは思っていなかった。 まるで麻酔にでもかかっていたかの様に麻痺していた感覚が、指先から戻ってくる。 静雄は、一体どれ程の覚悟を持ってあの質問をしてきたのだろう。きっと、初めからずっと胸に秘めていただろうに。その儚い優しさの為に、なかなか言い出せなかったのだろうに。 それまで静雄は然したる抵抗も無しに、臨也からの一方的な行為を受け入れ続けていた。 嫌だったのかも知れない。 本当は、胸の奥では嫌で嫌で仕方無かったのかもしれない―― そう思うと、あの静雄の言葉は、どんな拒絶の言葉よりも遥かに残酷な気がして、ずきずきと胸が痛んだ。 静雄は全て解った上で、自分を受け流していたに過ぎないのだ、と。結局、全ては臨也の独りよがりであり、一方通行な想いだったのだ…と、思った。 (人間の心は脳にある筈なのに、どうしてやはり胸が痛むのだろう?) 臨也の問いに答える者は居ない 。 ただ、――この心の痛みだけは確かに本物だと感じた。 廊下が、やけに長く思える。 いつも二人で並んで歩いていたこの放課後の、赤く焼けた学校の廊下も、今となっては気味が悪く感じられる。 教室側に伸びた自分の黒く長い影を見ながら歩いていると、ある教室の前で自分の歩みがふと止まった。 そこは、数日前の逢瀬の場だった。 「――結局…俺は…、」 ぽつり、と。 諦めたような呟きが口から溢れ落ちて、身体の奥で何かが決壊した。 認めたくなかった。 自分で自分を許せなかった。 大嫌いな筈のあの化物を――人間以上に愛してしまっているのだと。 ―――頭が痛い。 たったの二、三日避けられただけで、こんなにも辛い。 「――…まだ…居たのか」 「えっ…」 唐突に現実に引き戻された。 声は後ろから聴こえてきたが、臨也は咄嗟に振り返ることを止める。一方的に、気配だけが背中越しに伝わってくる。周りには誰も居なかった。 「……もう一度、訊いてもいいか」 心臓が掴まれた様な感覚に、肩がびくりと震える。けれど――この前とは、違っていた。 「何で、俺なんだ?」 他の女たちではなく、何故―― ――瞬間、臨也は振り返って、逆光で表情の窺えない身体を抱き締めていた。 きつく、抱き締めていた。 「――…な、…いざっ?!」 「シズちゃん」 「うぁっ…何だよ…!」 「……シズちゃんっ!」 「…臨也?」 自分の声が、自分でも驚くほどに泣きそうで弱々しい。必死すぎて、何だか笑える。 自分と静雄との身長差では、抱き締めると言っても、自分が静雄の腕のなかに収まっているようなものだ。 そうして、数日ぶりの温もりに、安堵する自分がいた。 ――確かに、 確かに彼は目の前に居る。 今この瞬間、自分の目の前に居てくれている。 それが嬉しくて悲しくて、仕様が無かった。 ――きっと、本当の事を言えば、静雄は更にこちらを避けるようになるだろう。それは嫌だけれど、辛いけれど、 今はこの想いを、正直に伝えたかった。 自分の無茶苦茶な抱擁を受け止めてくれている静雄の顔は見ずに、臨也はゆっくりと、言葉の感触を確かめながら、口からそれを押し出した。 「君が、――シズちゃんが、好きだからだよ」 優しくて残酷な現実。 甘美なその響きとは異なって、それに内包された想いは、ぐちゃぐちゃどろりと脳を侵す毒のように。 気が付けば、硝子張りに静雄を押し付けて、その唇を貪っていた。 自分の告白に対する答えなんか、どうせ解りきった答えなんか、欲しくなかった。聞きたくなかった。 そうして臨也は、また静雄の優しさに甘えていたのだ。 「……ふっ…ぅ…」 鼻にかかった甘い声が漏れる。 その度に、溢れ出す想いが苦しくて切なくて堪らなかった。もう二度とこんな事は出来ないのだと思うと、腕のなかの温もりを手放せずに更に強く強く抱き締める。 必死なその様子に何か感じたのか、静雄が珍しく無理矢理肩を引き剥がした。 「んんっ――!っ…、おい!」 「っ!」 唐突に終局を迎えた時間に、くらくらとしていた意識がびたりと脳裏に焼き付く。 ――終わった、な… そう感じて、臨也は自虐的な笑みを浮かべたあと、その場を逃げるように走り去っていった。 「おい、いざやッ――――……」 呼ぶ声がしても、振り返らなかった。とにかく、全てを無かった事にしたかった。 次の日から、 二人の放課後の秘密は無くなった。いつも通りに、周りと同じく平常授業が終わると直ぐに学校を出て、帰る。そしてたまに、二人は前と同じ様に喧嘩をする。初めこそ何か言いたそうにこちらを追い掛けてきていた静雄だったけれど、今では――最早目的を見失ってしまったのか、あちらも『あんな事』など無かった事にしたかったのか、真意は不明だが、問答無用に容赦無く殴りかかって来るようになった。 いつから始まったのか、どうして、どういった流れであんな関係が始まったのかも忘却の彼方へと追いやられ、いつしか―――あれから、6年の歳月が経とうとしていた。 「やぁシズちゃん、今日も元気そうだねぇ。ピンピンしてるねぇ。」 「それは俺の台詞だノミ蟲野郎……潰しても潰しても沸いて出てきやがって…」 「ははっ、心外だなぁ…。その台詞、そっくりそのままシズちゃんにプレゼントしちゃう、よっ!」 街路樹の枝にジャンプして掴まり、足を振って反動をつけ、近くの自動販売機の上に飛び乗った。直ぐ様そこに拳が振り下ろされるが、大きな軌道のそれは容易く読め、臨也はひょい、と直前に自販機を蹴り上がって、隣の看板の上に立つ。 「っと、怖いこわい!」 流石に異常に気付いた周囲の人々の注目を集める。臨也は少し顔をしかめてビルの壁を横に這う太いパイプに掴まり、その上へと飛び乗って、更に上へ上へと駆け上がり、隣の四階建てのビルの屋上へと跳躍した。 すると、すぐ目の前に、自販機を踏み台にして直接駆け上がって来たらしい静雄が現れ、臨也は舌を打つ。 「――臨也ぁ…今日こそ手前を、」 「……はぁー…解った解った…じゃあ、好きにすれば?」 降参、といった体で、臨也は両腕を挙げた。片手には例によってナイフが握られたままだったが、それは静雄にとって大した障害にはならない。案の定、そのまま突っ込んで来た。 ――昔の事思い出しちゃったりして……今日の俺はちょっと疲れてるな… すまし顔で容易く体当たりを避けつつ、黒いコートを翻して屋上の反対の端へと駆けて行く。 「いざやぁ!待てッ……――?!」 ――次の瞬間、 臨也は、何のためらいもなく屋上から飛び降りていた。 「――……っ!」 ぶん と、何か強烈な力によって釣り上げられたように、落下していた身体が宙を舞い、再び屋上の床に叩き付けられる。その時、下手すれば普通に四階建てビルの屋上から飛び降りるよりも、酷い衝撃が身体を襲ったが、そんな事よりも。 「…っかは…シ、ズちゃん………?」 「………――馬鹿かお前は!!」 「……は…?」 痛む肩を押さえながら、未だ起き上がれない臨也は、そのまま静雄の言葉に目を丸くした。 ずんずんと迫り来る大魔神に為す術もなく、臨也はただ訝しげにその表情を窺った。 「…何で、シズちゃんが怒るの?」 「手前みてぇな奴がこんなとこから飛び降りたら、普通死ぬだろうが?あ?」 「……いや…それ、答えになってないよ、っごほ!」 微妙にすれ違うやり取りに突っ込みを入れつつも、未だ引かない全身の痛みに噎せて身体を丸めた。すぐ隣に、静雄がしゃがんだ気配がする。 「―……俺なんか、死んだ方が良いんじゃないの?シズちゃん…」 逆光になって、表情がよく見えない。だけど、もしかしたらこれは――寂しい顔をしているのかも知れない、と、思った。 自分の只の、淡い期待に過ぎないのだろうけれど。 「―…ねぇシズちゃん、」 「……あ?」 「覚えてる?俺たちが高校生だった時のこと…」 「あ?……――ああ」 手を伸ばす。 けれど、それは虚空を掻いて、臨也は握りこぶしを作った。 「懐かしいなぁ……」 「……今と大して変わらねーだろ…」 「…っはは、そうかも。」 静雄の影越しに、赤く焼けた空が見える。あの頃の夕焼けと、同じ空だった。 「―……そう……昔も今も、悲しいことに何も変わらない。変わってない、俺は…」 そこで、目蓋を閉じる。静雄とは反対の方を向いて寝返って、丸まった。 息を吸って、まるで天気の話でもするかのような何でもない口調で、言った。 「俺は今も…――シズちゃんを好きなままだ。」 いつの間にか、背中越しに感じていた気配は消えていた。 臨也は起き上がって、暗くなり始めた都会の空を見上げる。 ――いつの日か、 覚悟が出来た その時には 毒と知りながら僕はそれを喰らおう。 2011/01/22 シリウスの青様に提出しました。〆切ギリギリで申し訳ございませんでした>< 楽しかったです!はぅあ〜…! テルル TOP |